オーストラリアにとっての第二次世界大戦は対日戦争でもあったわけですが、日米開戦後まもなく日本軍はオーストラリア本土にまで進出しています。その代表的な攻撃が豪州北部のダーウィン空襲と、特殊潜航艇のシドニー攻撃でした。
ここでは最初にダーウィン空襲を取り上げます。

日本軍の空襲を受けたダーウィンと北部周辺都市
■ダーウィン空襲
ノーザン・テリトリーの州都であるダーウィンは豪州北部に位置し、当時の人口は5,800人ほどの小さな町でした。
日本軍はダーウィンを1942(昭和17)年2月から1943(昭和18)年11月まで、97回以上の空襲を行いました。
日本軍はその頃、オランダ領東インド諸島(現在のインドネシア)を占領していましたが、豪州ノーザン・テリトリーには豪軍をはじめとする連合国軍が駐留していました。
日本軍の空襲はそれら連合軍の軍事施設の破壊を目的としていました。ダーウィンへの最初の日本軍の攻撃は、1942(昭和17)年2月19日に行われました。
この日、南雲中将が指揮する第一航空艦隊、第二航空艦隊の空母「加賀」「赤城」「蒼龍」「飛龍」から計188機が飛び立ち、ダーウィン湾に停泊していた豪軍の艦艇と民間輸送船を攻撃しました。
最も被害の大きかったのがこの2月19日の空襲で、250人以上が死亡し、400人以上が負傷したと伝えられています。

日本軍による軍事施設への攻撃。最初の破壊による石油貯蔵タンクの爆発。
日本軍の攻撃が始まった当時、ダーウィンは無防備な状態で、豪軍はヨーロッパ戦線に投入されており豪州本土には小さな守備隊しか残されていませんでした。
不意を突かれた豪軍は民間人と共に街から逃げ出し、反撃した豪空軍が撃墜した日本機はわずか4機でした。
この事件はオーストラリアにとって、安全保障政策の面で大英帝国との決別を意味することになりました。
イギリスはオーストラリア防衛の要として、シンガポールに海軍基地の建設を進めていました。しかし基地の完成前に日本軍によってシンガポールは陥落してしまい、しかも日本軍の豪本土攻撃に対しても、イギリスはなすすべもありませんでした。
オーストラリアは自身の元植民地・自治領も防衛できなかったイギリスとは袂を分かち、以降はアメリカに安全保障をゆだねることになります。

日本軍の爆撃を受けた跡地に建てられているノーザン・テリトリー議事堂内部。床には「1942年2月19日、敵の爆弾がここに投下され10人が犠牲となった」というプレート(手前)が埋め込まれている。
柱には犠牲となった10人のプロフィールが掛けられている。壁には空襲後に発見されたオーストラリア国旗。
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映画「オーストラリア」では終盤に日本軍のダーウィン空襲が出てきます。
ただ話自体がメロドラマであるのと、映画では日本軍が豪州本土に上陸するなど、史実と違ってドラマティックに創作されていますので、戦争映画として見る作品ではないですね。
・日本のオーストラリア空襲(ウィキペディア)
・『物語 オーストラリアの歴史』-多文化ミドルパワーの実験、竹田いさみ、中公新書、2000年
・『日本とオーストラリアの太平洋戦争』-記憶の国境線を問う、鎌田真弓編、御茶ノ水書房、2012