筑波海軍航空隊記念館で見学した展示品をご紹介しています。今回は特攻隊関連のものです。
太平洋戦争前夜の筑波航空隊は、予科練出身者も入隊し、その激しい訓練で「鬼の筑波」と呼ばれました。
昭和16年10月から昭和17年3月まで、訓練教程を終了した52名の飛行士は激戦地へ送られ、終戦までに46名が南方の外地で戦死しました。
昭和20年から筑波航空隊は鹿児島県鹿屋基地に進出。集合写真のうち20名が飛行士ですが、昭和20年4月6日、14日に特攻で全員戦死しました。
以下、特攻隊で出撃した海軍飛行士のエピソードです。
■空母エンタープライズに特攻した富安俊助中尉
富安俊助中尉。大正11年、長崎県生まれ。
昭和18年に早稲田大学を卒業後、第13期・海軍予備学生となり筑波海軍航空隊で零戦搭乗員としての訓練を受けました。
昭和20年5月14日、第六筑波隊長として鹿屋基地から12機を率いて出撃。種子島東方沖にて米軍空母エンタープライズに突入。享年22歳。
特攻でダメージを受けた空母エンタープライズ。
この突入で空母乗組員14名が戦死、60名が負傷しました。エンタープライズは大破炎上、これ以降は戦列に戻ることはありませんでした。
富安中尉の遺体は空母内で発見され、その後米軍兵士と同様に、丁重に水葬されたそうです。
■遺影と結婚した花嫁(藤田暢明少尉と睦重さん)
藤田暢明少尉(享年21歳)
藤田少尉は大正12年、徳島県生まれ。実家は大きな農家でした。東京農大へ進学後の昭和19年、学徒動員で第14期海軍予備学生となり、土浦航空隊へ入隊。14期の飛行教程はわずか30時間で終了しました。
藤田少尉は出撃前に東京出身の睦重(むつえ)さんと結婚を望みましたが、彼女の両親は娘が未亡人となることが明白なので結婚に反対。しかし睦重さんが反対を押し切り結婚を望んだため、ついに両親も折れ結婚許可を出しました。
ところが結婚許可の出た3日後、藤田少尉は鹿児島県鹿屋基地から500キロ爆弾と共に特攻に出撃、そのまま戻ることはありませんでした。
睦重さんは藤田少尉の戦死後、彼の実家で遺影と結婚式を挙げました。戦時中でもこのような事例はなく唯一、戦死者と結婚した女性となりました。
戦後は養父の説得に応じて帰京、大学へ進学し最後まで一人で生きて、1993年に亡くなりました。
なんだか、全然意図していなかったのですが、最後はバレンタインらしい話になってしまいました。いっつもこうなんですが何故? 不思議です~。∑(゚Д゚)
じゃあ、最後まで2月14日モードで行きましょう。(^▽^;) 藤田少尉が結婚相手の睦重さんに宛てた遺書からの抜粋で終わります。
「愛しい我が愛妻 睦重!
来世も次の世もまた次の次の世も暢明の妻となってくれ。
睦重、睦重、睦重。
優しいおまえをだれよりもおれは愛する。睦重さようなら。
むつゑ、睦重、睦重、睦重! 優しい優しいただ一人の
睦重 さらば! 又の日」
海軍少尉 藤田暢明