ここからは、慰安婦について取り上げます。映画が公開されたのが1965(昭和40)年ですが、慰安婦を真正面から扱っています。しかし現在では、とてもこのような内容の映画は製作できないと思います。 主役級をご紹介していなかったのですが、左が主役の小杉曹長(三船敏郎)、右が隊長の佐久間大尉(仲代達矢)。
赤枠の軍服に貼り付けられている記号は一体何なのでしょうか?
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片仮名の「キ」のようにも見えます。
小杉曹長の「追っかけ」をしている慰安婦のお春(団令子)。
食事中の慰安婦の皆さん。
従軍慰安婦問題は、政治問題として紛糾しています。慰安婦の強制連行があったのか、というのが焦点だと思いますが、慰安婦自体は存在していました。当時の史料にも「慰安婦」、「慰安所」の記述が見つかります。
問題なのが、歴史問題が政治問題にすり替わっていることです。政治問題なのですから、韓国政府は元慰安婦の皆さんに、日本からの謝罪や保障を与えるのが本来の目的なのではありません。
元外交官の佐藤優氏は、韓国政府が日本人に頭を下げさせることによって、韓国人のプライドを上げることがねらいなのだと指摘しています。
慰安婦のお春さん(赤の矢印)は、危険な前線にまで小杉曹長(その左隣)を追っかけていきました。
小杉曹長が、そのお春さんを少年兵たちに紹介しています。
「このお春さんが、はるばるとこの山の中に慰問に来てくれた。それが並大抵でないっちゅうことは、やっとここをモノにした(敵地を占拠した)みんなには分かっていると思う。
みんなお春さんを抱く時には、つつしんで、敬礼してから抱け」
確かに慰安婦は、将兵の何倍も実入りが良かったと聞いています。
しかしその事実を差し置いても、なおかつ女性を「モノ」、もっと明白に言えば「セッ●スマシン」と捉えているところに抵抗感を感じます。
慰安婦が一晩で10人以上の相手をとるような場面が出てきますが(しかし直接描写はない)、女性として見ている側は身体が壊れるんではないかと気分が悪くなります。
なぜこのような拒否感を感じるのかというと、これはシルバーバーチの言う、いわゆる「自然の法則」(自然の中に含まれる、目に見えない規則)に違反しているからです。
「自然の法則」の一つに、「自分がやってもらいたくないことを、人に行うな」という法則があります。
男性でも自分のパートナーや姉妹に、このような仕事をしてもらいたいと思うでしょうか?ほとんどはNOだと思います。これは「自然の法則」から見て当然のことで、人間の道徳観に背くものだから抵抗を感じるのです。
それともう一つ、慰安婦のような人間の本能的欲求に関係する話題を映画の前面に据えると、慰安婦と関係する男性の登場人物も全員低俗に見えて品位を貶めてしまいます。(俳優さん自身が低俗に見えるわけではありません)
私には主役の小杉曹長より唯一、慰安婦・お春の誘惑を蹴った隊長の佐久間大尉の方が高潔な人物に見えてしまいました。
しかし多分この映画が製作された60年代には、男性のこのような振る舞いが、「浮気は男の甲斐性」と社会的にも肯定的に捉えられていたのだと思います。