
のちに前線へ出てから、反戦軍人・志賀一等兵(左)は、人を一度も殺したことがない葬儀屋の持田一等兵(右)と殺人の是非を語り合います。
反戦「たかが陣地一つのやりとりに殺したり、殺されたり、こんなバカなことがあるか。お前、人を殺せるか?」
葬儀屋「殺せないよ。でももし殺さなきゃ、ワシが殺されるって時はしょうがない。一生懸命殺す・・・だろうね」
しかし八路軍と白兵戦になった時、反戦軍人・志賀一等兵は、向かってきた敵兵と対峙してどうしようもなくなり、最後に刺し違えて戦死してしまいます。
戦争による殺人の是非というのはよく論議となりますね。平常時は犯罪者なのに、なんで戦争では殺しても罪にならないのか、いかなる時も殺人はいけないんじゃないかと。
なぜこのような議論が起きるかというと、殺人自体が「自然の法則」(自然界に存在する目に見えない法則)に反していますし、そのことを知らない人間でも、「殺人は人間としていけないこと」という自明の認識を持っているからです。
シルバーバーチによると、相手を殺さねば自分も殺されるという場合は、正当防衛として殺人をしても可とされます。だから戦争での通常の殺人では因果律(カルマ)も来ませんが、虐殺の場合はまた別となります。
例えば殺さなくてもよい民間人を殺した場合などが該当します。この場合はカルマが来ますが、このカルマの重さも本人の霊性レベルや、行為を行った時の状況によってまちまちで、一人として同じ規模のカルマは来ません。
ここでは全部語りきれないのですが、虐殺でも上官に命令されて無理やりやらされた場合と(やらねば銃殺刑)、やらなくて済んだのに自発的に行った場合では、カルマの重さも違ってきます。当然進んで虐殺に参加したほうが罪は重くなります。
罪が重い(利己的理由) > 罪がより軽い(利他的理由)
自発的に行った虐殺 > 強制されて行った虐殺
こういう状況も戦時には非常にトリッキーな場合があって、どこからが虐殺でどこからが正当な殺人なのかが分からなくなる場合もあり、難しいですね。
前線での炊事班長(左)と小杉曹長(中央)との会話。背後の赤枠内では、中国人の農民がクワで地面を耕しています。
炊事班長「(農民を見て)百姓か?」
小杉曹長「百姓じゃない。(土を手に取って)この土じゃ何も取れん」
その後背後の中国農民は、突如ゲリラと化して、日本軍に銃撃を始めます。八路軍の中には農民として偽装をしている者も多く、農民だと思ったら突如撃ってきた、というケースも多く報告されています。
こうなると、農民だと思ってもゲリラの場合もあり、民間人なのか、兵士なのか見分けがつきません。すると疑心暗鬼となり、用心のために本物の農民を殺したというケースもあったのだと思います。
戦争とは、正当防衛的な殺人だけに終始しようと思っても、状況が許さないケースもあり、それに関わった将兵はそれだけカルマを被ることになります。本当は戦争を始めないのが一番の得策なのですが、それもやむを得ない場合もあり、人類も一挙には賢くなれないようです。