昭和18年5月初旬、トラック泊地に停泊中の大和(左)と武蔵(右)。
■大和の住所
「大和に乗り込むことは誰にも極秘です。肉親への郵便物の宛先も『呉鎮守府気付ウの556と言え』と言われました。ウの556が大和です。艦長(有賀幸作)の名前を取って有賀部隊ということもありました。しかし、艦長は変わるのでやはり番号です。ウの556の11です。それが私の第11分隊です」。
■大和の「格」
「多くの兵にとって、大和はあこがれの艦だった。『不沈艦』であり『世界最強』、砲術、航海、機関、通信など各科とも成績上位者だけが選ばれる。それが彼らにとっての大和であった。
1944年1月、大和が呉に入港していたときのことだ。高角砲員・坪井平二は公文書を呉鎮守府に運ぶことになった。仕事が予想より早く終わったため、坪井は本屋に入った。
ポケットに手を入れて『立ち読み』しているところを、巡視中の警邏(けいら)兵にみつかった。風紀の乱れを取り締まる役目である。所属と名前を聞かれた。
『大和水兵長、坪井平二!』
そう叫ぶと、相手の顔色が変わった。『一号艦か・・・帰れ』
一号艦とは、大和の別名である。
『自分が足止めして、帰還が遅れたら大変なことになる。そう思ったんでしょう。大和は格が違うと、改めて思いました』」。
■大和主砲の欠点
「大和の主砲は威力がある。しかし、欠点もある。近距離では撃てない。かすめ飛ぶツバメのような敵機に対してはまったく無力である。船底の底を泳ぎまわる敵潜水艦にも対応できない。
味方の対空火器にたいする影響も大きい。主砲が撃つときには他の火器の活動が完全にとまる。とくに遮蔽物がない機銃員が退避しないでその場にいると、爆風で吹き飛ばされてしまう。
世界一の主砲と甲板に配置された対空火器をどうじにつかうことはできないのである。大和の主砲は巨大であるがために『艦対艦』という限定した条件のなかでしか力を発揮できない」。
大和の主砲(左)を使用する場合は、対空火器(右)は同時に使えない。
■輸送船となった大和
「昭和18年12月12日、大和がトラック島を出港した。ゆく先は横須賀だという。この戦況で何故、内地に向かうのか不思議におもった。
昭和18年12月17日、横須賀港に入港した。ここではじめて理由がわかった。
――輸送
である。港にいかりをおろしたのもつかの間、陸軍の部隊や物資の輸送をおこなうため、大和はふたたびトラック島にむけて出港した。
この時期、太平洋の制海権は、ほぼ連合軍(米国、豪州、英国、オランダ)のものとなり、敵潜水艦が跳梁していた。
大和が物資や人員の運搬につかわれたということは、それだけ輸送船が沈められたといいうことである。すでに太平洋のどこであっても安心して輸送できる海域がなくなりつつあった。(中略)
それにしても世界一の軍艦を輸送船のかわりにするとは。戦況の悪化をこれほど端的にあらわしていることは他にないであろう。わたしの気持ちは暗くなった」。