池部少尉の所属する衛生隊・輜重(しちょう)第二中隊は、以前から南方への「転進」がささやかれていましたが、いよいよ昭和19年4月、北支那(中国北方)から南方のハルマヘラ島へと出発することになりました。ハルマヘラ島とは馴染みのない名前ですが、インドネシアの島の一つで、フィリピンを南下した場所に位置しています。最初「腹へる・・島?」とか読み間違えていました。確かに駐在していた兵隊さんはお腹が空いていたでしょう。
南方に転進するにあたって、まず上海まで移動して一時滞在し、輸送船を待つことにしました。
移動のX日までにまだ時間があるので、役に立つのかどうか分からない変な訓練が、上海の滞在地で始まりました。
「・・・副官の中条大尉が、体力増強、並びに密林内の戦闘に便ならしむため、と雑嚢(ざつのう)に6,7キログラムの石を入れさせ、起床時から就寝時まで(小隊長以下全員)、片時も離さず背負っておれという命令を出している」
ダンベルでも7キロというと、結構な重さです。ダンベルは使用しても数分ですが、これを一日中持って歩くとなると、大変な重さだったのではないでしょうか。池部少尉は、
「南方の何処へ行くのか知らないが、上陸して戦闘が始まったら、石運びで疲れ切った小隊長以下が、まず先に戦病死するか、体力の増強をしていない中隊長以上が、先に死んでしまうか、こらあ問題だな、と思った」
やがて移動命令が下り、中隊は輸送船・天空丸に乗船して上海を出港し、揚子江を経て南方へと向かいました。船内には4段の蚕棚式の床があり、衛生隊約700名は寝そべることもできず、肩を擦り合わせ、死地に向かう覚悟で膝と銃を抱え座り込んでいます。
「向こうに着くまでは、生きたまんま棺桶に入れられて火葬場へ連れて行かれるのと同じですな」という、山下准尉の言葉が当を得ていました。
ハルマヘラ島まであと一日という日、とうとう敵潜水艦の攻撃を食らい、魚雷が命中してしまいました。輸送船が沈みかかり、池部少尉はあわてて傾いた船内で部下を探し回ると、部下たちはまだ海に飛び込みもせずに小隊長を待ち続けていました。
周りは勝手に海に飛び込んでいるのに、部下たちは自分を待ち続けてくれた・・・池部少尉は部下が自分を信頼していてくれたことに感激します。そして部下を無事退艦させようと、全員が海へ飛び込む最後まで指揮を執り続けました。
その後彼はハルマヘラ島に上陸し、行方知れずとなっていた部下たちと再会し、感謝されます。犬猿の仲であった山下准尉も顔を会わせると、
「無事で、よかったですな。天空丸での退船指揮、立派でした。あたしの負けだ。これからも、お互い一蓮托生ですから、よろしく頼みます」
と、見直されました。しかし海へ飛び込んだ直後に池部小隊は全員四散してしまい、いつ来るかもしれぬ救助を波間で待ち続けていました。
「浮いている約2,000名の兵は、風や波に悪戯(いたづら)をされて、4つか5つのグループができた。或いは軍歌を唄い、或いは号泣し、或いは徒らに大声を上げている。『泣くな』。『軍歌、唄うな』。『消耗するぞ』といった声が、熱い微風に乗って聞こえて来る。
飛び込んでから、ずいぶんと時間が経ち、夜が来た。生、死を考えられないほど、頭は豆腐のように、白くふにゃふにゃになった」
映画「さらばラバウル」。1954(昭和29)年公開。元陸軍だが海軍軍人役が多い。
天空丸の遭難者は海上を漂流して10時間が経ち、夜に入ってから海軍の駆潜艇に救助されました。こうして池部少尉を含む救助者は、最終的にハルマヘラ島まで輸送され上陸しました。
ハルマヘラ島に上陸後は部下との再会後、統率者がいなくて困っていた衛生隊の隊長を少尉ながら任されます。彼が親しくしていた予備士官の上官、茂木中尉は、
「僕は、他の将校さんの中じゃ、一番勤務年数が短いですから、君がいなければお鉢は僕に回ってきます。衛生隊の隊長と言えば聞こえはいいですが、5,60名の弱小独立小隊の長じゃ、恐らく苦労が多いと思いますね。」
と大変な任務を池部少尉に丸投げしてしまいました。池部は頼もしく思っていた上官のダークサイドを垣間見せられ、「押し付けてほっとしている(上官の)態度に無性に腹が立った」と告白しています。
ハルマヘラ島では当初は米軍の爆撃があったものの、その後は米軍の飛び石作戦の対象となったのか攻撃も途絶え、終戦まで隊はただひたすら食糧を確保するために苦心することになります。
「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」で海軍参謀を演じる池部良。1960(昭和35)年
「最初の爆撃に遭ったときから、30日も経たない内に、米・乾パンは尽き、、蜥蜴(とかげ)、蛇、蛙、宿借り、変な虫の幼虫、パパイヤ、キャッサバ、椰子の実、川にいる小さな蝦(えび)、鰐(わに)なども獲り尽くしてしまった。
兵達は、僕の目を盗み、砲兵隊の食糧集積所から、黙って頂戴することが始まった。泥棒していると知っていても、知らん顔をするのが、この場合、隊長としての、正しい処置なのか、とは思ったが、悲しい正義であることに間違いはないのが、心苦しい」
「標高200メートルはありそうだから、蚊も飛んで来られないだろう、と高を括ったのは、大変な失敗だった。僕を含め、隊員の9割は、マラリヤ、デング熱、三日熱と思われる病気に罹(かか)り、毎日、40度の高熱を出し、下痢を始める。歩く姿は幽鬼のようだ」
ズボンやシャツは一着しかないので、いざという時まで温存しておこうということで、隊長以下、全員フンドシ一つで過ごしていました。階級章は付けるところがないので、軍帽に縫い付けました。
食糧がないというのも、軍の糧食計画がいい加減だったのですが、ハルマヘラ島に駐在していた池部少尉をはじめとした日本兵たちは、戦闘がなかった分幾らかマシだったのかもしれません。
しかし終戦後、日本から迎えの艦が来るまでは飢餓との闘いであり、池部少尉も栄養失調のために歯が抜け落ちてしまいます。その端麗な容姿とは裏腹に、以後の人生を彼は総入れ歯で過ごさなければなりませんでした。