俳優・池部良の軍隊生活 【前編】 | 太平洋戦争史と心霊世界

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 昭和に多数の戦争・文芸映画などで活躍した俳優・池部良氏は、実生活でも大卒の陸軍予備士官として、中国・南方戦線に送られた軍隊経験者でした。



若林大尉 

池部良。1918(大正7)年-2010(平成22)年、享年92歳。

戦争映画の代表作は「暁の脱走」、「潜水艦イ
-57降伏せず」、「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」等がある。画像は海軍大尉を演じている「さらばラバウル」から。

 

 彼は後に数多くのエッセイも発表し、その中に軍隊生活模様を綴った『ハルマヘラ・メモリー』があります。この中から池部氏の戦争体験記をご紹介します。

 

 池部良は昭和17年に陸軍に召集され、最初に北支那(中国北方)にある陸軍予備士官学校に入学しました。彼は予備士官学校をいよいよ卒業する間際、同期生からのんびりせずに早く軍服を買えと注意されます。

 

同期生「お前(池部良)こそ、今から(軍服を)用意しとかないと、兵隊服のままじゃ格好がつかないぞ。兵隊服は支給だから、将校になったら貰えない。

  将校は身の回りも食事の費用も、自分で出さなければいけないことになっている。軍隊内務令にちゃんと書いてある」



「早春」 

小津安二郎監督の「早春」。1956(昭和31)年公開。



 これは海軍も同じで、士官は自前で軍服を仕立てなければなりませんでした。それは大変だ、と池部は父親に必要品を送ってくれるよう手紙を書きましたが、父は、

 

「委細承知したが、日本も、いよいよ底をつくほど、いろいろと品不足だ。承知はするが駄目なものもある。軍服、靴は駄目な口だ。軍服の布地は探しても無い。有れば、へらへらのスフ地だが、とても日本の軍人が着られるようなものじゃない」

 

と、軍服さえも手に入らない状況です。スフとは粗悪な化学繊維でできていた布地です。しかし階級章は送ってもらえました。

 

「追記。少尉の階級章、新聞社の社長に頼んだら、買ってくれた。今年(昭和18年)から、形が大きくなったのだそうだ。階級章が派手になったり大きくなったりする時は、戦争に負けると聞いている。軍部は勝つ、と言っているから勝つのだろうが、俺は嫌な予感がする」

 

と父親が書いてよこしたので、池部はよく検閲に引っ掛からなかったと感心しました。彼の父親は画家だったため、新聞社とも親交があったようです。

 しかし士官用の軍服が手に入らなかったため、池部少尉は以後兵隊服のままで過ごし、しばしば兵士と間違えられていました。

 

予備士官学校を卒業した昭和19年、池部見習士官の最初の勤務地は、冬には零下まで下がる中国・山東省嶧県(えきけん)が隊でした。隊名は第三十二師団衛生隊・輜重(しちょう)第二中隊。輜重とは輸送のことです。


山東省 

 彼はここで5歩走ったら目を回し、10歩も走らせようものなら、たちまち頓死(とんし)しかねない中年兵隊さんの初年教育」を任されます。

  しかし当時
26歳で予備士官学校あがりの池部少尉に対し、たたき上げのベテラン下士官はなかなか言う事を聞きません。何かと嫌味を言ったりして突っかかってきます。

 

 特に部下の山下准尉は池部少尉の許可も得ず、勝手に中年の補充兵たちを乗馬訓練に連れ出してしまい、衝突が起こります。危険な敵地で勝手に未熟な兵を連れ出すなと池部は非難しますが、暖簾に腕押し、軍隊生活12年の山下准尉はのらりくらりとかわします。

 

池部少尉「いずれにしても、越権行為であり、担当違いに首を突っ込む筋違いとなりはしないですか?」

 

山下准尉「ごもっとも、ごもっとも。しかし、私は池部さんを蚊帳(かや)の外に置こうなんて気持ちは、さらさらありませんからな。誤解しないでくださいよ」

 

池部少尉「池部さん、ではなく、池部見習士官と言い給え」

 

 会話のように、池部少尉、舐められていますね~。よく軍隊では上官の命令は絶対であると言われます。しかしそれは相手の立場によって相対的に変わってくるものであり、いかなる場合も相手が自分より階級が上なら命令は絶対、というわけではないようです。

 

特に大学上がりの予備士官は、陸軍士官学校出(海軍なら兵学校出)の士官より一段低く見られがちでした。


暁の脱走 

「暁の脱走」、1950(昭和35)年。池部良が陸軍上等兵を演じている。ヒロインは山口淑子(李香蘭)。


 陸軍士官学校出と大卒の予備士官では思想も違います。以下は池部少尉と、やはり同じ予備士官である茂木中尉の会話です。

 

茂木中尉「僕はね、保定の予備士官学校で、よく教官に言われました。貴様みたいにとろい奴は、部下の死に場所を選んでやることは出来んだろう。貴様は、とろくてなんでも、何カ月後になりゃ指揮官になるんだ。指揮官になったら、部下に死に場所を与えてやるのが第一義と心得よ、と言われました。

  教官は市ヶ谷(士官学校)出身だから、一途に、考えもなしに、指揮官というものを、四角い函の中に入れてしまいますが、僕には、どうしても、そういうふうには考えられないんですね。君は、どう思いますか?」

 

池部少尉「僕も、そう思います。部下は死に場所から遠ざけてやりたいです」

 

茂木中尉「いずれにしても、死という奴は意識的に頭に浮かべたり、死という言葉を簡単に転がしてはいけません。気持ちが悪くなります」

 

 これは海軍でも兵学校出の士官と、大学での海軍予備士官との間でも同じ思想の対立が見られます。

  特に吉田満氏の『戦艦大和ノ最期』で語られる、予備士官が「何のために死ぬのだ?」と言う疑問を発すれば、兵学校出の士官が「戦死は名誉なことだ、黙って死ね!」と答える両者の対立は有名ですね。

 

 次回の後編に続きます。