元外交官の佐藤優氏が提案する、外交における交渉術をご紹介します。これは実生活にも活用できると思います。

■交渉をしないための交渉術
「交渉を行ってもこちら側が損をすることが明白な場合は、そもそも交渉の土俵に上がってはならない。
例えば、ブレジネフ時代のソ連は北方領土問題に関する交渉を一切拒否した。そのため、1991年4月のゴルバチョフ訪日までソ連首脳の訪日はなかった。『日ソ間に領土問題は存在しない。存在しない問題について交渉することはできない』という態度だ。
このソ連が交渉方針を転換したのは、ソ連が西側との緊張を緩和することが国益と考えるようになり、そのために北方領土が存在しないという頑なな態度をとっていると、西側における対ソ警戒感を除去できず、ソ連に与える損失が大きいと判断したからだ。
またアメリカやイギリスがアルカイダと交渉しない、ロシアがチェチェン分離派と交渉しないという交渉術をとっているのも、アルカイダやチェチェン分離派を犯罪者集団として一方的に処理できる枠組みが必要だからだ。交渉に応じてしまえば、相手を国家と対等の交渉相手と認めることになってしまう。
そのため、アルカイダやチェチェン分離派から交渉に向けたシグナルが出てきても『交渉しないための交渉術』を最大限に活用している」
「日常生活に引きつけてみても、ストーカー的に声をかけてくる者、悪質出会い系サイトによる架空請求などについては、一切相手にしないという交渉術が有効である」

■暴力で相手を押さえつける交渉術
「相手の言い分には耳を貸さず、一方的にこちらの要求をのませる。
未開社会や古代で、戦争によって相手の部族や国家を征服し、富を略奪し、被支配民を奴隷にするというのはそのような交渉術である。いわば『力の論理』だが、実はいまもその有効性は失われてはいない。
現代国際法においても戦争が完全に違法化されているわけではないので、国際紛争を暴力で解決するというシナリオはありえるのだ。
現在、このカテゴリー交渉術をとっているのが北朝鮮だ。弾道ミサイルと核兵器による恫喝で、自国の利益の極大化を図っている。国際政治地図における当時のナチス・ドイツはヨーロッパ第一の強国だった。それでも『暴力で押さえつける交渉術』をとって失敗したのだ。
北朝鮮のような弱い国が、この交渉術をとっても、いずれ息切れする。そのときにこれまで温和(おとな)しくしていた他国が北朝鮮を徹底的に叩き潰そうとする。中長期的には得策ではない。
『暴力で相手を押さえつける交渉術』は日常生活でも応用可能だ。例えば、ペットとの交渉である。動物には動物の内在的論理がある。例えば、猫は善 / 悪の基準で行動するのではなく、快 / 不快を基準にしているように私には見える。
猫に食卓にのぼらないようにいくら説得しても、猫は言うことを聞かない。そこで、猫が食卓に乗ったときは、『シュー』という猫の嫌がる音を出し、猫の鼻先に人さし指を軽く当てる。これは暴力ではないが、猫に対する実力行使であることは間違いない。
これは母猫が仔猫の行動をやめさせようとするときに鼻先に前脚を軽くあてるのをまねたものだが、そうすると猫は食卓から降りる。不快だからである。もちろん人間が見ていないときは、平気で食卓にあがるが、人間がいるときはそのような行動をとらない」

■取引による交渉術
「これが狭義の交渉術にあたる。交渉術で伝達される技法のほとんどがこのカテゴリーで使用されることが想定される。
ある集団(共同体)と別の集団が出会う。一方の集団が極端に強い場合には、他の集団を征服し、富を略奪し、人々を奴隷にする。そこでは第二のカテゴリーの『暴力で相手を押さえつける交渉術』が適用される。
ところが、集団と集団の力関係か、優劣はあるが、その差があまりない場合には、一方の集団が他方の集団を征服することができない。あるいは征服することができたとしても、こちら側の損害と損失が大きすぎる。その場合は、平和的な交換が行われる。
集団と集団の間で、貨幣を媒介として商品が交換されるように、ことばなどを使い、さまざまなメッセージを交換することで、衝突を回避するのである」
『交渉術』、佐藤優、文藝春秋、2009年