現在では戦艦を所有する国はなくなってしまいましたが、20世紀前半の大艦巨砲の世界では、海軍の主力は戦艦でありました。戦艦は現代で例えると核兵器に相当していました。
日本海軍は世界主要国との建艦競争・軍縮を経て、最終的に「大和」という巨大な核を生み出したのですが、その大和が誕生した背景についてざっと見ていきます。
まず1914(大正)年から1918(大正7)年にかけて、第一次世界大戦が勃発したのですが、日本は連合国に加盟していながら戦闘には参加しませんでした。欧州の国々は大戦のため国力が消耗しきっていましたが、日本は軍事力をそのまま温存していました。
第一次大戦後、日本は今がチャンスと軍事力の強化に乗り出しました。当時は帝国主義で、食うか食われるかの時代です。日本は戦艦8隻、巡洋艦8隻を建造するという、いわゆる「八八艦隊計画」を始めました。
さらに日本は、第一次大戦で敗戦したドイツが所有していた、パラオやトラック諸島などの太平洋の諸島を譲り受け、日本領としました。
これにアメリカが警戒感を高め、3年艦隊計画(ダニエルズプラン)によって新艦の建造を打ち出しました。ヨーロッパ各国も負けじと建艦競争が始まりました。
これでは各国の軍事費はうなぎ上りとなり、財政を圧迫して共倒れとなります。アメリカなどは国民からの不満もあり、戦勝5か国(米・英・日・仏・伊)で軍縮を行い、戦艦の保有数を制限することにしました。
これが1921(大正11)年に開かれた「ワシントン会議」です。核爆弾(戦艦)の開発には莫大な費用がかかり危険なため、国際会議を開き、各国が持つ核(戦艦)の保有数を決定します。ちょうど現代の核兵器が、当時の戦艦に入れ替わった形です。
ワシントン会議によって各国の建艦競争が止まり、世界は「海軍休日」(ネイバル・ホリデイ)という休止期に入りました。
次に1930(昭和5)年に、ロンドンで海軍軍縮会議が開かれました。前回のワシントン会議では、補助艦・重巡の所有数を制限しませんでした。それでやはり補助艦を造れと建艦競争になったので、これを抑えるための会議です。
ロンドン海軍軍縮会議ではアメリカの海軍力100に対し、日本の海軍は、補助艦(空母・駆逐艦・潜水艦)は70、重巡は62%に抑えられることになりました。
戦艦ばかりか、補助艦まで制限されたのではたまらない。それでは欧米に負けないような、一つの艦で3倍、4倍の働きができる戦艦を造ろうと日本は考えました。数を制限されるなら、一艦を大きくして、巨砲を積める頑丈な戦艦を建造しようというのが日本の発想でした。
このため後に作られたのが、戦艦「大和」と「武蔵」の姉妹艦でした。設計が昭和9年から始まり、建造が呉の造船所で昭和12年に開始され、昭和16年12月16日に大和は完成しました。
しかし時すでに遅く、約1週間前に真珠湾攻撃で飛行機の有用性が認められ、戦艦は過去の遺物と化しつつありました。大和は戦艦から航空機へと兵器が移行しつつある転換期に誕生し、世界最大最強の戦艦と敬意を払われつつも、ついに活躍の場を与えられることはなかったのです。