昭和20年4月7日は戦艦大和が沖縄特攻に出撃し、撃沈された日です。この日にちなんで大和最期の戦闘を体験した方々の回顧録を掲載したいと思います。残酷描写もありますのでご注意ください。
西田(耕吾)は暗闇の通路を通り、階段を上って最上甲板に出た。船は左に傾いている。
敵機の機銃掃射に狙われた。ふだん厚い防御甲板に囲まれているため、敵弾に直接襲われたのは初めて。「ダダダ、ダダダ」という音を聞きながら甲板にうずくまり、両手で目をおさえた。「至近弾でも目が飛び出る」と聞いていたからだ。
第一波が去ったあとに、上から甲板を見たらまさに地獄でした。応急員がホースで甲板の血を流していました。負傷者や死体を、衛生兵が走り回って運んでいましたが、なんと、ちぎれた腕や足はぼんぼん海へ投げ捨てているのです。
各治療室は重症者でいっぱいとなった。浴室は臨時の死体収容所となった。
左舷の甲板には、胴体からちぎれとんだ手足が散乱し、脚がとびちり、首のない胴体がよこたわり、あちこちに若者たちの頭部がころがっている。
ながれたおびただしい血は甲板をおおい、血液が凝固をはじめ、粘液の被膜となっている。いたるところにどこの部分かわからない肉片がとびちっている。
爆風で木の葉のようになって海上にとばされた兵も多かったと聞く。おちてきた水柱の海水とともに海にながされた者も多数にのぼるだろう。
吉田(満)の横で電測士の西尾少尉が倒れた。彼は発作的に自分のはらわたを穴の開いた腹に押し込もうとし、助けようとした吉田に不敵な笑みを見せた。そしてすぐ死んだ。歯を見せて笑おうとした彼の顔の中で、微笑がそのまま凍りついた。担架員が死者を運び出し、血を吸ったリノリュームの床に砂を撒いた。
保本少尉は傾斜した壁面に足をつっぱっていました。その直後です。信じられない光景が飛び込んできました。彼はいきなり、私の目の前で戦闘服の前を引き裂き、ズボンのベルトを外しました。そして、日本刀の柄に戦闘帽を巻き付けて握りました。次の瞬間、やにわにわき腹に切っ先をつき立てたかと思うと、一気に腹をかっさばいたのです。
「うーっ」という呻き声が聞こえました。そして刀を二度目に引いた時、ホースから水が飛び出すように、ぱあーっと血が噴出しました。(中略)
長年、海軍にいた保本分隊士は、大和が沈むことを知っていたのでしょう。壮絶な割腹の現場を見てしまった私はもう、声も出せず、その場に凍り付いていました。軍人とはいえ、まだ17歳なのですから。
艦内にいる機関兵たちのことが頭をかすめた。彼らは悲惨である。魚雷命中の破裂口からはごうごうと海水が流入する。水線下に配置された兵たちは、きつく閉じた防御扉蓋の内側にとじこめられる。
刻々と水かさが増していく。無傷のまま、生きたまま、足もとから海水が満ちてゆき、やがておぼれて死ぬ。
そのかずは何人くらいだったのだろうか。機関兵たちの死に方もまたむごかった。
あちこちで次々に兵隊たちが海に脱出しようとしていましたが、私の下のほうでは、必死にクロールで泳いでいた兵隊3人が、ざばあーっと、百平方メートルもある巨大な煙突に呑み込まれていきました。その煙突の反対側からは、大量の高圧蒸気がシャアーと不気味に噴出していました。助かるはずもありません。
(傾いた)艦の右側、すなわち高くなっている側のハンドレールには、蟻の群れのようにたくさんの兵隊がぶら下がって乗り越えようとしていました。しかし結果的に、彼らはほとんど助かりませんでした。
ほどなく艦(大和)はほとんど90度まで傾き、私は必死で海へ飛び込みました。何と海面上38メートルの高さだった艦橋の頂上が、海水面から1メートルくらいになっていたのです。私は甲板から海に飛び込んだのではありません。艦橋のてっぺんから飛び込んだのです。