
戦争関連の文献を読むと、日本海軍に戦略はなかったという主張を時々見かけます。確かに真珠湾を叩き、ミッドウェーまで出て行って、最終的には日米戦争をどう終結させ、戦後はどうするのかという、青写真が見えてきません。
この最大要因は、海軍が採用していた兵学思想にあったと言われています。近代兵学には二つの流れがありますが、その一つは日本が導入したジョミニ式、もう一つはアメリカが採用したクラウゼヴィッツ式です。
アントワーヌ・N・ジョミニは18世紀にスイスに生まれ、ナポレオンの幕僚を務めた人物です。後にロシア軍に転向して陸軍大将になりました。
アントワーヌ・N・ジョミニ
ジョミニ式は「いかにして戦うか」という方法論に徹し、「戦略と戦術は本来同一のもので、単に規模の大小、戦場からの遠近で区別するに過ぎない」という考えでした。
この兵学は明治中期、秋山眞之参謀がアメリカの大兵学者A・T・マハンから導入したのがきっかけで日本に定着しました。
もう一方のカール・フォン・クラウゼヴィッツはジョミニと同年代生まれのプロシャの将軍でした。ナポレオン戦争で捕虜になった経験を生かして『戦争論』を著しました。
クラウゼヴィッツ式は「戦争とは何か」という根源的な問題から問いかけました。戦略・戦術を「ある目的を達成するための大方針が戦略、そしてこの戦略を実現するための手段が戦術である」と、戦略と戦術は全く別のものと捉えました。
また「戦争とは他の手段をもってする政治の延長にほかならない」とし、軍事はあくまで国家目的を達成するための手段であり、軍事は政治に従属するという観念を持っていました。
つまりジョミニ式を採用した日本は、国家戦略レベルで戦争をどう捉えるかという思考に乏しかったのです。「木を見て森を見ず」的な枝葉末節にこだわった戦い終始し、クラウゼヴィッツ式の大局を見た合理的な戦略・戦術をとった米海軍に敗北してしまいました。
さらに日本は日露戦争で艦隊決戦をとって勝利を収めてしまったことにより、ジョミニ式兵法がますます固定してしまいました。
この時代の戦争は局地戦をとっていたので、ジョミニ式でも作戦はうまく機能していました。ところが第二次世界大戦の国家・国民を動員した総力戦となると、この戦略はもはや通用しなくなってしまいました。
総力戦ではアメリカのように、国家を基軸とした国家戦略が必要だったのですが、戦争中の日本はこの根本的な欠陥に気が付きませんでした。
従って艦隊決戦にこだわり、銃剣突撃を繰り返すという日露戦争以来の旧態依然とした戦術を繰り返すことになってしまったのです。