
太平洋戦争直前と戦時中の日本では、ナショナリズムの高まりにより英語や英米文化にまつわる物を禁止する運動が自然発生的に始まりました。
具体的には英語教育の排除、英米音楽の禁止、シンガポールを「昭南島」、野球のストライクを「正球」、レコードを「音盤」と呼ぶなど、英語から純正日本語への言い換えが進みました。
このように英語を敵性語と称し排除した理由として、敵への憎悪を煽ることで戦意高揚を図る目的がありました。しかし実際には英米音楽や英語自体に害があったわけではありません。
心理学ではこのような行為を「置き換え」と呼びます。置き換えとは、ある対象に感じた不安や怒りを直接相手にはぶつけないで、その代理となる無害な対象に置き換えてぶつけることです。
例えば家庭で親と不和状態にある子供が、その不満を学校で誰かをいじめることによって憂さを晴らすなどの行為です。敵性語の誕生した背景もこれと同様です。英米と言う敵から来る憎悪を、相手の使用する言語・文化に代わりにぶつけて溜飲を下げます。
アメリカでも日本と同様の運動がおこり、日米開戦と同時に日本語・ドイツ語・イタリア語は排斥されました。しかしアメリカでは日本よりも排斥運動の度合いは小さかったようです。
それを裏付ける話として、1927(昭和2)年にアメリカから日本へ友好の一環として「青い眼の人形」が贈られ、返礼に日本でも日本人形をアメリカに送った出来事がありました。
「青い目の人形」
戦時中の日本で、「青い目の人形」は敵国のものとして竹やりで突かれたり、焼却されたりして大部分が処分されてしまいました。しかしアメリカに送られた日本人形は、戦時中も大切に保管され大半が現存しています。
また明治時代に当時の東京市から日米親善のためアメリカへ桜を送ったことがありました。昭和にはワシントンのポトマック川に桜並木が出来ていましたが、それらも戦争で切り倒されたという話は聞きません。
ワシントンのポトマック河畔の桜
これはやはり国民性の違いで、合理性を重んじるアメリカ人は心理学で言う「置き換え」の度合いも、当時の日本人より少なかったのかもしれません。
戦争当時はともかく、現在の日本ではどこかの相手国が気に入らないから、相手国の物に八つ当たりして快哉を叫ぶといったことは流石にほとんど見られなくなりました。
ある国が気に入らないからと、相手国にまつわる物を攻撃するのは馬鹿げた行為であると、人々が認識しているからだと思います。これは戦後になって非科学的な部分が改善された良い例です。
ただ未だに近隣諸国では、相手国が気に入らないからと、該当国の生産した車を破壊したり、国旗を焼いたりしている所もあります。
これも彼らは戦前の日本人と同じことをしていて、意識がまだ日本人より数十年遅れているのだと考えれば、気分の悪い出来事でもあまり腹が立たないのではないでしょうか。