1927(昭和2)年5月からほぼ2年間、伊藤少佐は留学のため駐在員として、米国へ派遣されました。当時は子供たちが小さかったため単身赴任でした。
到着したワシントンでは大使館付武官の山本五十六大佐が待っていました。かつての霞ケ浦航空隊時代、山本は伊藤の直接の上司であったことがあり、彼らはお互いに面識がありました。
米国駐在武官時代の山本五十六
その後伊藤は駆け出しの駐在員として山本にしごかれるのですが、山本大佐は昭和2年暮れに帰朝を命じられます。
その後エール大学での勉強が一区切り付き、ワシントンで筆頭補佐官を始めた伊藤が知り合ったのが、米海軍の情報課に赴任したレイモンド・スプルーアンスでした。
彼らは皮肉なことに、18年後の戦艦大和の沖縄特攻でお互いに敵味方として戦うことになります。
しかし当時はそのような運命も露知らず、スプルーアンスは41歳、伊藤は37歳、同じように長身で控えめで似た両者でした。お互い寡黙な性格でしたが不思議にもウマが合いました。
レイモンド・スプルーアンス少将
スプルーアンスは後年、日本人について抱いていた感情を回顧しています。
「日米両国が戦争状態に入ってから、スプルーアンスは、自分が日本人をどのように理解していたかを振り返ってみた。そして、アメリカ人が共通にもっている人種的偏見に影響されずに、親しみと敬愛の気持ちを抱いている事実に気がついた。
もっとも、日本人の胸の底には何がかくされているのか、完全には汲みとり難い面もあったが、自分なりにそこまで深く理解しえたことを、坂野大佐(伊藤の上官)と伊藤中佐に感謝しなければならない、と彼は考えた。」
2年間の米国駐在から帰国し、伊藤家では子供が生まれ、その後一男三女となりました。父親としての伊藤整一の逸話も残されています。
「父としての整一は、躾はたしかにきびしかったが、ふだんは些細な原因で叱ることもなく、大ていのことは黙って受け入れてくれる物分りのいい人であった。
一見無愛想なのは、もともと口数がすくないのと、手軽に愛情を見せるのがバツが悪いからにほかならないことを、子供たちは折にふれてたしかめることができた。」
1929(昭和4)年7月から1931(昭和6)年12月まで、伊藤中佐は海軍兵学校の教官兼生徒隊監事を勤めました。生徒隊監事とは訓育の指導者で、精神教育を担当していました。
兵学校教官時代(画像はイメージです)
海軍人事当局は伊藤が教育畑に適任であることをかねてから着目しており、また海外生活で培った視野の広さが生徒たちに好影響を及ぼすだろうと期待されていました。
伊藤教官の指導は徹底した「不言実行」型であり、普段は表面に出ず肝心な時だけ口を出すというもので、無駄な説教はせず、自ら見本を示しました。
当年40歳になるというのに、伊藤教官は水泳では褌(ふんどし)一本で生徒に混ざり、何キロも泳ぐキツイ遠泳に耐え抜きました。
また江田島では伝統的に鉄拳制裁の気風が受け継がれていましたが、伊藤はこれを厳禁とするなど、改革を行いました。そのため伊藤の赴任期間中は、これまでのバンカラ調から紳士然とした雰囲気のクラスが誕生しました。