伊藤整一(5)-異例の軍令部次官 | 太平洋戦争史と心霊世界

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トンガリ頭の伊藤整一 

「三分刈りに刈りこんだ頭は、幾分トンガリ頭で、どうかすると写真に細長くうつり過ぎるので子供たちはいやがっていたが、本人は、『弘法大師も、こんな頭だったそうだよ』と、珍しく冗談を言って笑わせたことがある。」



    1931(昭和6)年の兵学校教官時代から艦上勤務を経て、1941(昭和16)年9月、少将となっていた伊藤は51歳で軍令部次長に任命されました。真珠湾攻撃の約3か月前でした。

 

 軍令部次長はもともと古参の中将のポストであり、少将でこの要職に就いたのは帝国海軍の歴史を通じて、伊藤整一を含む計二人だけでした。

 

 これは何かと縁の深かった山本五十六が軍令部総長の永野修身(おさみ)大将に推薦し、大抜擢されたお蔭でした。また永野は伊藤の兵学校教官時代の校長でもありました。



永野修身大将 
永野修身大将


  伊藤は陸軍から米内・山本・井上同様の知米派で開戦反対派とみなされていたので、陸軍の抵抗があり軍令部内定から就任が1か月遅れました。

 

 軍令部の仕事は第一線部隊との意思の疎通、部内のとりまとめ、海軍省または陸軍参謀本部との駆け引きなどの調整能力と忍耐が必要で、また顔利きも重要という特殊な部署でした。

  このようなポストにいきなり栄転した新人の伊藤は大変な心労を重ねました。

 

その頃、伊藤家の家族は、父親が毎晩必ず遅くまで調べ物をしていたのを覚えています。食事がすむと応接間に閉じこもり、遅くまで熱心に書類と取り組んでいました。

 

 伊藤軍令部次長が就任当時、日米開戦は目前に迫っていました。海軍では若手士官が陸軍内部の対米戦派と結託して、開戦を強硬に主張していました。

  そのため海軍の一部首脳が開戦反対を唱えても、下からの突き上げがひどく、のっぴきならない状況になってきました。


海軍参謀会議 

  また陸軍の手前上、海軍は負けるとわかっていても、「米国と戦う自信なし」とはとても言えませんでした。

  つまり海軍は長年享受してきた莫大な予算を、陸軍から「対米戦を行わないのなら必要なし」と、取り上げられる可能性があったためです。ここでも陸海軍間での確執が見え隠れします。

 

 こうして昭和15年の日独伊三国同盟以来、時流の勢いには抗えなくなってきました。11月から12月にかけて行われた大本営政府連絡会議、御前会議では、開戦の具体的手順が討議されました。

  しかし次長として出席した伊藤には公式の発言権はなく、求められた質問に答えることが許されただけでした。

 

 知米派で開戦反対の伊藤がなぜ開戦に異議を唱えなかったのか。それは伊藤の性格上、組織の規律を乱す行為は最も戒めるべきと考えていたからと言われています、

 

また当時の永野、伊藤の会話から察するには、日米開戦に至ったのは政治をこのまま放置すると、日本全体が共産化し革命が勃発すると判断したことにある、という説があります。
 
  戦争の惨禍より共産化の脅威を重視した、という見解ですが、これには説得力がないとの声も上がっています。