伊藤整一(2) -青年時代 | 太平洋戦争史と心霊世界

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海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。



では伊藤整一の人柄はどのような環境で培われたのでしょうか。

 

彼は1890(明治23)年7月に、福岡県三池郡黒埼開(ひらき)村に生まれました。「整一」の名の通り長男で、下には2人の弟と3人の妹がありました。

 

 家は代々農家で父親は整一を跡継ぎにと望んでいましたが、彼はそれを押し切って柳川の県立中学校、伝習館へと進みました。

  この時代の中学課程は現在の中・高一貫教育にほぼ相当し、田舎では学歴的にエリートとも言ってよいほどの少ない進学率でした。

古い校舎 
(画像はイメージです)


  整一は一生を百姓で埋もれたくない一念で進学したようですが、後年海軍での長い東京勤務の際には郊外に家を構え、唯一の趣味として畑仕事に精を出していました。

 

 整一の住む開(ひらき)村から伝習館までは3里(12km)の道のりでしたが、二年生の中ごろに寄宿舎が出来るまで、毎朝4時起きで徒歩で、実に往復6里(24km)の道を毎日通学していました。

 

学校では誰も彼が教科書を開いているのを見たことがなかったため、そのうち登下校の途中歩きながら勉強しているのではないかという噂が立ちました。

 

彼の勉強の出来は大器晩成型と呼ばれ、数学や理科などが得意な半面、歴史などの暗記物が苦手でした。伝習館では中学三年で特待生、四年には級長となっていました。

 

 運動神経もよく、何の運動をやっても一通りこなし、体格もよく海軍兵学校卒業時には身長は180cm近くの頑健な体格になっていました。


海軍兵学校 

海軍兵学校 (現在は海上自衛隊第1術科学校)


 海軍兵学校へは明治41年、五年生の年に受験し、一度で合格しました。

  兵学校時代の逸話はほとんど残っていませんが、勉強時間は生徒の中でも最も少ない方で、それでも卒業時(第
39期)の席次(ハンモック・ナンバー)は、クラス総員148名中15番と、優秀といえる部類に入りました。

 

 明治44年、満21歳で兵学校を卒業後の経歴は練習艦乗り組み2年半、海軍水雷学校に1年、乗艦実務・艤装(ぎそう)訓練3年と、若い頃は駆逐艦勤務を長らく経験しています。