
駐独大使・大島浩(ジパング・10巻)
『ジパング』10巻、ドイツへ飛んだ津田大尉を含む「A-26」飛行チームは、ドイツ大使館で職員とミーティングしますが、駐独大使・大島浩は端役でその場を仕切っています。
大島浩(1886-1975年)はドイツ外相である「リッべントロップの小使い」と揶揄された人物です。
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ。ドイツの外務大臣(1938-1945)を務める。
ドイツに傾倒し、軍服をドイツ将校の出入り店でドイツ風に作らせ、英国製のウイスキーを嫌い、ドイツ製のサクランボ酒を好み、ソーセージを食べるといった、何から何までドイツ命の人間でした。
この原因の一つは、父親の陸軍ドイツ留学時代からのドイツびいきから来ていました。
この影響は当然大島にも及び、彼は父から毎日ドイツ語を10語ずつ暗記するよう命じられます。
また学校の長期休暇には、在日ドイツ人の家庭へ預けられ、ドイツのあらゆる事を学ばされました。その甲斐あって、彼のドイツ語はとても外国人とは思えぬほど流暢だったといいます。
しかし天は彼に二物を与えませんでした。大島は陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業した陸軍軍人でしたが、運動神経が鈍く不器用で、演習の柵越えがなかなかできなかったのです。
上官に叱責されやっとできたと思ったらズボンを引っ掛けて破き、下着が丸見えとなり皆の爆笑を買う始末です。
またひどい音痴で、歌を求められるといつも十八番の同じ歌を唸っていたと言います。
性格は子供のころから負けん気の強い、激しい気性の持ち主でしたが、部下に対しては面倒見がよく、必要なカネは惜しまず気前の良い人間でした。
彼はヒトラーをはじめナチス党中枢部に知己が多く、リッべントロップとも友人のように接していました。
大島浩(1886-1975年)
1934年からの駐独武官時代も、犬猿の仲の駐独大使の頭越しにドイツ要人と会合を持ち、勝手に要件をまとめてしまうという独断専行は甚だしいものがありました。
こうして駐独大使を排除し、1938年に大島は自らが駐独大使となり、日独伊三国同盟の成立の橋渡し役となりました。
しかしあまりにもドイツに偏向していたため、「大島のヒトラーかぶれ」と言われ、日本でも次第に不振を買うようになってきました。
1945年5月、ドイツが敗戦すると大島ら日本外交団は米軍に捕えられ、米国に捕虜として移送された後、日本で軍事裁判を受けることになります。彼は三国同盟の締結を懸命に煽っていましたから、これが原因となりました。
大島は終身刑を言い渡されますが、判決は6(終身刑)対5(死刑)のきわどいもので、かろうじて生き残りました。
服役後、1955年に仮出所しますが、釈放後も約15年近くにも及んだドイツ時代については、他に迷惑がかかるからと固く口を閉ざし、黙して語らずに生涯を終えました。