
太平洋戦争での米国の勝因は物量の差であるとしばしば指摘されますが、その陰で真珠湾後、米国の奮闘ぶりが尋常でなかったことはあまり知られていません。
ワシントンに海軍在外武官補佐官として赴任し、戦時中はアメリカに抑留されていた実松譲(さねまつ・ゆずる)はこう述べています。
「私は戦時中に、我方の作戦が失敗する毎にその敗因のよって来るところは米国の優大なる『物量』の為である、と耳にタコができるぐらい聞かされた。
たがこれらの人々は、米国の『物量』のかげに隠れている米国人の努力は、目を覆うてこれを見ようとしない。
のみならず、精神力は我国の”専売特許”でもあるかの如く『大和魂』にうぬぼれてこれを過大に評価し、他面、米人にはヤンキー魂なるものがあることも考えず、あるいはこれを過小に評価するのであった。」
米国は真珠湾の初戦の敗退を刺激剤とし、ミッドウェー海戦までの6カ月間に、国家総力戦体制を整えました。
この際の米国の工業力を戦時産業へ転換し、工場設備の拡充などの役割を果たしたのが、「戦時生産会議」(War Production Board)でした。
この職の長官に就いていたのがドナルド・ネルソンでしたが、彼の粉骨砕身ぶりをしのばせるエピソードがあります。
「ネルソンは妻子をシカゴに残して単身ワシントンに赴任し、文字通り寝食を忘れて全精魂を戦時生産に打ち込んだ。
朝は早く出勤、昼食は役所で、そして夕食のためにホテルに帰り、終われば再び登庁して深夜まで職務に尽瘁(じんすい)した。
彼には日曜も祭日もなく、家族をかえりみる暇もなかった。為に彼の妻は、ついに離婚の訴訟を提起したのであった。」 軍隊志願する米国の若者たち
実松(さねまつ)は昭和17年まで米国に抑留されていましたが、その間米国の戦時体制をつぶさに観察し、日本政府と次のように比較しています。
「私は日米の国交が緊迫し開戦は不可避と観取されるようになってから、米海軍省の執務状況を見るのを夜の日課としていた。
夕食をすまして行って見ると庁舎の半分ほど、映画がひけてからでも四分の一ほどの部屋に点灯されているのを例とした。
点灯の程度をもって残務の人員を推定できないにしても、夜遅くまで相当の人が執務していることは肯定されるであろう。
開戦後の状況は、抑留されていたので知るよしもなかったけれども、諸般の状況から見て右のごとき平時の状況は拍車がかけられたと想察される。
ところが、開戦翌年の8月に帰国して軍令部に奉職し、したしく戦う祖国の姿に接したのであるが、敵国にいた当時『ああであろう、こうであろう』と胸に描いていた祖国のことが完全に裏切られてしまったことを、まことに情けなく感じさせられた。
その一つは、海軍中央部の執務状態に全く真剣さが見出されず、平和の時代と大差ない状況であったことだ。退庁時になると、勤務員の大多数が潮のごとく霞が関の門を出て家路へと急ぐ。
残っている者は寥々(りょうりょう)たる有様であり、8時ごろには事務室の灯火はほとんど消えてしまい、灯火の常夜灯のみが人気のない赤煉瓦の建物の内部を照らしている。
これが大敵アメリカを向こうにまわし、国運を賭して戦っている祖国の姿なのであった。
私は、ドナルド・ネルソンや米海軍省の精勤さに思いをいたし、みずからを鞭撻(べんたつ)するのであった。」
彼は昭和17年以降、日本が負け戦になってからも、アメリカの勤勉ぶりは日本より勝っていたと証言しています。