
米国民の敵愾心をあおったのは、不意打ち攻撃をかけられた真珠湾だけでなく、人種的偏見や、東洋の未知の国に対する恐怖もありました。
もともと米国の大衆は日本について極めて無知で、日本人は文化の低い貧乏な国民であるとしか考えていませんでした。
そこで万一この戦争に負ければ、米国民は奴隷のような生活を強制させられるのではないか、という懸念が非常に強かったわけです。
それは到底耐えられない、今の生活を何としても維持し、絶対戦争に勝ち抜かねばならない、と馬鹿にしていた日本に負かされ、それが刺激となって奮起したのでした。
また米国では開戦と同時に、日本研究を熱心に始めました。当時米国の在外武官補佐官であった実松譲(さねまつ・ゆずる)は次のように語っています。
「開戦となるや、米人の日本研究熱はあたかも燎原の火のごとく広がった。
大学などには日本研究部が設けられ、三省堂発行の英和、和英辞書の複製本が一部5ドルで発売され、書店には日本に関する書籍が目につくようになり、軍部では柔道を教えたり、日本語を専修する学校が創設された。
英語の学習までも禁止した日本のやり方とは正反対の現象が、かの地であらわれてきたのである。」
また彼は、創設された日本語学校について紹介しています。
「コロラド州の首府デンヴァー市をへだてること40マイルの地に米陸軍の日本語専修の学校が創設された。
教室でも寄宿舎でも、日本語の使用を建前とした。約一年の教程を終えた卒業式における校長の訓示も、卒業学生総代の答辞も、また来賓の祝辞もみなすべて日本語であったという。
私は当校出身の数名と会談したが、一通りの会話はもちろんのこと読み書きも相当なもので、わずか一年余りでかく上達するものかと、年季だけは彼らの10倍近くもいれている自分のつたない英語が恥ずかしくなったほどだ。」
アメリカは合理性を重視する国であり、当時英米のものは表面に出ることを禁止していた日本とは対照的な政策を行っています。
以上のように、日本の政策は感情的な同調性を重視するあまり、合理性が損なわれる面が現在に至るまでの課題となっているようです。