山本五十六大将の国葬
山本搭乗機が墜落して30時間後の翌4月19日午後、密林の中を踏破して捜索隊がやっと現場に到着しました。
そのとき最初に陸軍軍医が山本長官を検視し、次に別の陸軍軍医が検視を行いましたが、その状況は次の通りであったと証言されています。
「墜落時に即死したと思われる他の操縦員や司令部職員と比べて、長官の遺体の蛆発生の進行が明らかに遅く、傷跡のないきれいな顔で、銃弾の貫通孔などむろんない。
機外からかなりはなれたところで、四角形の物体に腰を下ろし、軍刀を大地に立てた姿勢でこときれていた。
明らかに高田軍医長と助け合って、この姿勢になったのだ。山本五十六が絶命したのは、墜落後18時間もたった、19日午前2時ごろと思われる。
戦闘機の機銃弾は、飛行機の機体を破砕するのが目的なので、人体に当たれば、酸鼻きわまりない。
東京での国葬に続いて郷里の長岡でも葬儀が行われた
まずは、頭部ならば半ば、腕や脚なら全てもぎ取られ、胴体の傷口は、拳が通り抜けたような血みどろの破口を呈する。山本長官と高田軍医長、それにあと2人ほどの同乗者が、それぞれかなりの間、生きていたことは明らかである。
恐らく全身打撲か、内臓破裂の状態で、彼らはうめき声を発して、励ましあい、救援をひたすら待ち続けた。」
しかし20日になって初めて海軍軍医によって検視された長官の遺体は、「2弾の機銃弾の縦刺創をみとむ。戦闘中、機上でそれを受けて、壮烈な戦死を遂げたものなり。」と報告され、それが今日までの定説となってしまいました。
以上のように、連合艦隊司令部は山本の実際の死亡状況を隠し、英雄にふさわしい死に際を創作したのではないかと、現在に至るまで憶測がなされています。
山本五十六の生家跡に造られた「山本記念公園」に設置された山本の胸像
山本五十六は現代において、軍人としての連合艦隊司令長官よりも、むしろ海軍次官であった軍政家としての方が一般的に評価は高いです。
ただアメリカの軍事専門家は、山本の戦略思想、卓越した作戦や戦術を日本人以上に評価しています。
山本のとった作戦は、どれも敵の意表を突く奇襲戦法やかく乱戦法を主体とし、米軍に大きな衝撃を与えました。そのアイデアは秀逸だったのですが、逆に米軍に応用されて、のちに日本軍が反撃を受けることとなってしまいました。
その例が3つあります。
1.真珠湾攻撃やマレー海戦で見られた、飛行機による戦艦撃沈法。これは飛行機が艦艇に対して優位にあることを世界に実証した最初の実例となった。
2.日本海軍は世界の海軍史上、始めて空母を主力とした機動部隊を創設し、新しい艦隊を編成した。これにより、いかなる場所でも随意に攻撃が可能となった。
3.ガダルカナル島の攻防戦において、戦艦戦隊を出動させ、本来ならその大口径砲を敵艦隊に向けるところを、陸上の飛行場破壊に転用した。
これらはいずれも太平洋戦争が始まるまで全く戦術としても存在せず、画期的なアイデアでした。
以上、予想以上に長くなってしまいましたが、21回までおつきあいいただき有難うございました。<(_ _)>
<山本五十六・完>
山本五十六の墓(多磨霊園)