
戦前の日本海軍では、大艦巨砲主義と呼ばれる戦艦を重要視する考え方が主流でした。日本では日清・日露戦争を艦隊決戦で勝ったため、日米戦争も、当然艦隊決戦で勝つべきであると考えていました。
日本海軍の理想の戦い方は次のようでした。
「戦艦の主砲が立役者となり、日米の戦艦群が対峙し、日本が射ち勝つ心組みだった。飛行機隊は、戦場にウロウロして邪魔立てする敵を撃退、敵戦艦群の上空にとどまって、味方の砲弾が『命中した』『遠くに行きすぎた』『右に切れた』などと実況放送する。
駆逐艦と敵機(飛行機)が直接向かい合って戦うことなど、夢にも考えたことはなかった。」
これは日本だけでなく他国も同様で、特にアメリカは、日本以上に大艦巨砲主義を信奉していました。その証拠にワシントン条約でも米国は戦艦にこだわり、日本が建造できる戦艦の比率をアメリカの10対6の割合に抑制していました。
しかし山本五十六が、空母と航空機を攻撃の主体とする真珠湾攻撃を考案したことにより、世界の潮流であった大艦巨砲主義の世界は一変します。
アメリカは真珠湾攻撃を経験することにより、航空機の時代が到来したことを俊敏に悟り、真珠湾を襲った日本軍の空母機動部隊システムをさっそく真似し始めました。
米軍のニミッツ元帥いわく、
「私も海軍士官だ。戦艦戦隊同士が向かい合い、堂々たる艦隊決戦をやって日米の雌雄(しゆう)を決したかった。しかし、真珠湾奇襲で、それよりも有効で強力な打撃力があることを知った。そうと知ったら、その打撃力を使わないという法があるかね。」
とコメントしていました。

チェスター・W・ニミッツ大将
では日本ではどうだったかというと、大艦巨砲の思想からなかなか抜け出すことができませんでした。後に来る艦隊決戦に備えておこうと戦艦を使わずに温存したこともあり、真珠湾でもミッドウェーでも戦艦の活躍はありませんでした。
真珠湾攻撃では旗艦長門をはじめとする戦艦は攻撃に参加せず、ミッドウェー海戦では戦艦大和も出撃したものの、空母機動部隊の遥か後方に位置し、次々と沈んでゆく空母をなすすべもなく見守るだけでした。
日本海軍は航空機での奇襲と言う、世界初の斬新な戦法を編み出しましたが、その代わり戦艦を上手く活かせず、飛行機の援護に使用するという発想も出てきませんでした。
航空本部長時代の山本五十六中将の言葉に
「戦艦はたとえて言えば、床の間の置物のようなものである。」
という発言が残っています。この山本の言を聞くにしても、戦艦は海軍の象徴としてただ後方に重鎮のように存在していればよい、という発想だったのかもしれません。
そして最期に大艦巨砲主義の象徴であった超ド級戦艦、大和は華々しい活躍もなく昭和20年4月、沖縄特攻で海底へと沈んで行きました。
それでは理想的な航空機主体の戦い方とはいかなるものかというと、昭和19年2月に米空母機動部隊が以下のような陣形を組んでいました。
「数隻ずつの空母を中核とし、空母と飛行機との間を無線電話とレーダーで繋ぐ。その数隻の空母を、戦艦、巡洋艦、駆逐艦でガッチリと取り囲み、輪型陣をつくる。
そして各艦艇は射撃用レーダーと結んだ強力な対空砲火を備え、日本軍の飛行機がどこから突っ込んできても死角を生じないよう陣形を構成していた。」
米軍の陣形はまるで海に浮かぶ要塞のようであり、生半可の航空攻撃では歯が立たなかったということです。
また油食いといわれる戦艦は、日本では石油不足のためうまく運用できなかったという理由もありました。例えば戦艦大和の1回分の燃料は、日本の全ての自動車が1年間走り回れるくらいの消費量に匹敵したと言われています。