山本五十六の生涯(15)-連合艦隊司令長官 | 太平洋戦争史と心霊世界

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司令長官の親補式 

連合艦隊司令長官の親補式を済ませた山本五十六中将


 1939(昭和14)年830日、山本は連合艦隊司令長官兼、第一艦隊司令長官に任ぜられました。

 

 山本が海軍次官から連合艦隊司令長官に就任したいきさつは、山本の身の危険を案じた米内が海上に移動させたというのがもっぱらの伝聞となっています。

 山本の友人であった反町栄一は、米内から次のようなエピソードを聞いています。

 

 「(有名な占者が)その後またやってきて、君(山本)の顔に死相が現れている。気をつけなければいけない、と言っていた。妙な話だが、どうもそのままの言葉が頭に引掛ってね。まあ、しばらく安全な海上暮しをするさ。」

 

 これで海軍内のポストを決めたのかと驚きますが、当時は軍・皇族の中でも占いで物事を決定することがありました。

 零戦撃墜王であった坂井三郎氏も、現在では考えられませんが、飛行士の適性検査に人相占いが使われたとの記述があります。

 

 連合艦隊司令長官は通常2年ほどで交代するのですが、山本の場合は替えの人間がいないとの要請で、戦死するまで異例の4年近く同ポストにとどまっていました。

 

 山本が長官に就任した頃から日米関係は暗雲がたちこめ、段々と選択肢が狭まり戦争の方向へと向かっていきます。以下は開戦までの具体的な日米状況です。

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はアメリカ、は日本の出来事です。

 

1939(昭和14)年7月: アメリカ、日本の日中戦争に抗議し日米通商航海条約の6ヶ月後の破棄を宣告。また米政府は航空用揮発油の輸出を許可制とし、航空用ガソリンの輸出を禁止する。

 

1940(昭和15)年9月: 日本陸軍、援蒋ルートを断つため北部仏印(ベトナム北部)へ進駐。

北部仏印に進駐する日本軍 北部仏印のハイフォンに進駐する日本軍


1940(昭和15)年9月: 日独伊三国軍事同盟が調印される。

 

1940(昭和15)年9月: 日本の北部仏印進駐三国同盟締結により、ドイツを嫌うアメリカは激怒、日本に対し鉄類の全面輸出を禁止する。

 

1941(昭和16)年7月: 日本、援蒋ルートを断つためと、戦争の物資ルート確保のため、南部仏印(ベトナム南部)へ進駐。

 

1941(昭和16)年8月:日本の南部仏印進駐への報復措置として、在米英蘭の日本資産の凍結、日英通商条約の廃棄、アメリカは日本への石油輸出を禁止する。

 

1941(昭和16)年11月: 日本はアメリカに現状を打開するための妥協案を提出していたが、アメリカはこれを拒否、ハル・ノートが提出される。この交渉案には中国、仏印(フランス領インドシナ半島)からの撤兵、三国同盟の廃棄などが含まれていた。

 

日本はハル・ノートを最後通告と受け止め、「全面的屈服か、戦争か」のうち戦争を選択した。1941(昭和16)年128日、日米開戦へと突入。