海軍次官時代、義弟の斎藤正久大佐(右)と
米内・山本コンビと陸軍の対立は、次第に深刻さを増しつつありました。そして日独伊三国同盟案の是非をめぐって、対立は頂点に達しました。
1937(昭和12)年11月、日本とドイツ、イタリアは日独伊防共協定を結びました。これはコミンテルン(共産主義インターナショナル)の破壊工作を防止するのが名目の協定でしたが、実際にはソ連を仮想敵国とする内容が盛り込まれていました。
日独伊三国同盟案は、この防共協定の強化の名目で、その対象国を英米にも拡大しようとする案で、昭和13年末に陸軍から提出されました。この内容は日独伊の1カ国が英・米・ソと開戦した場合、他の2カ国も参戦するというものでした。
昭和天皇が同盟案に否定的であるのを知った米内と山本は、同盟案に猛烈に反対し、軍務局長の井上成美も反対派にまわり一歩も譲りませんでした。そして英米との対戦には絶対に勝てないという姿勢は最後まで崩しませんでした。
三国同盟案は昭和14年初頭から起こっており、この案をめぐる陸海軍の対立は公にはならなかったため、知っていたのは新聞記者と右翼活動家だけでした。従って非難の対象は新聞記者を相手に表立って記者会見を行っていた山本次官に集中しました。
こうして「海軍の中で三国同盟に反対しているのは山本だ」と信じられるようになり、山本は右翼の暗殺リストに載るようになっていました。昭和14年5月頃、逮捕された右翼が所持していたリストには、山本ほか、親英派の名前が記されていたと言います。
日独伊三国同盟が締結され、東京の外相官邸で行われた祝賀会
山本は右翼の襲撃を防ぐため、この頃は護衛を連れて歩いたとの逸話が残されています。ある研究書では「右翼テロに狙われて憲兵隊が護衛して歩くほど」と書かれています。
しかし『図説 山本五十六』(2004年発行)の著者は「憲兵隊は護衛を申し込んだが、山本は断った。右翼と憲兵隊がつるんでいることはよくわかっていたからだ。」と上記に反する事実が述べられています。
山本の子息、山本義正氏が書いた『父 山本五十六』(2001年発行)では、山本の護衛の為に私服の憲兵が随行するようになったとの描写があります。
その後は四六時中、憲兵の護衛が付くようになり、それは護衛の名目で父・山本をスパイしているようであり、山本次官は迷惑に感じていたと述べています。
この山本の身辺の護衛に関する記述は、研究者によって少しずつ違っており、真相はどうであったのか明確に語れない部分があります。