連合艦隊とは | 太平洋戦争史と心霊世界

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連合艦隊10

 
 「連合艦隊」という言葉は戦争関連の映画やら本に頻繁に出てきますが、一体何なのでしょうか。

 

 まず「艦隊」の定義は「軍艦二隻以上の集団を指す」とあります。「連合艦隊」の定義は「旧日本海軍が二個以上の常設の艦隊で編成した、非常設の艦隊である」とされています。

 そうすると、軍艦
2隻×2隻=4隻だけでも連合艦隊と言えるのでしょうか。4隻だけではあまり大したことできそうにないですけど。(^_^;)

 

 連合艦隊は戦時体制に移行すると、下の図のように昭和15年以降から雪だるま式に膨張しました。

連合艦隊編成の推移 
連合艦隊編成の推移


 「第一艦隊」とは平常時からの常設艦隊で、もっぱら戦艦を主力とした決戦艦隊でした。「第二艦隊」も常設艦隊で、巡洋艦・巡洋戦艦を主力とする前線部隊です。

 

 第一艦隊・第二艦隊は常設でしたが、第三艦隊以降は必要に応じて編制・解散される特設艦隊であったため、日露戦争から太平洋戦争までの間、六代にわたって編制と解散を繰り返しました。

 

 『山本五十六』の著者、田中宏巳氏は「『連合艦隊』がなぜ必要なのか、なぜ編成しなければならないのか、その理由について確たる説明を聞いたことがない。」と話しています。

 

 連合艦隊が編成されたのは日清戦争からですが、そのきっかけは戦闘海域が渤海湾周辺に限られ、清国の北洋艦隊と渡り合うには、持てる力を一元化した方が有利との判断から編成されました。

 

 日露戦争の戦闘海域も東シナ海と日本海に限られ、ロシア極東艦隊と戦うには戦力を一元化したほうがよいとの明らかな理由がありました。

日露戦争 



 しかし太平洋戦争の場合は、太平洋という広大な海域が戦場のため、指揮系統は一元化しても、戦力まで一元化するべきでは無かったと田中氏は疑問を呈しています。

 

 つまり日本は太平洋戦争ではこれまでの戦争と規模が大きく違ってきているにもかかわらず、日露戦争以後の艦隊編成を旧態依然としてそのまま維持していたことになります。

 

この慣行は山本五十六が長官に就任しても変わらず、相変わらず旗艦に乗艦していました。これは海軍の中では、大艦巨砲主義が依然として信奉されていたためでもありました。

 

 第11航空戦隊指令を務めた山本親雄(ちかお)少将によると、「艦隊司令長官は、いつも旗艦に座乗して陣頭に立つというのが伝統であったが、今度の戦争のような大規模な戦いでは、もはやこのやり方は通用しなかった。」と所感を述べています。

 

 田中氏によると、やり方が通用しなかった理由は「戦争の質、規模がこれまでと大きく変わり、司令部は中央とも部隊とも頻繁に連絡を取り合いながら戦いを進めなければならなくなった。

 だが艦上に司令部を置く限り、旗艦の通信能力に大きく拘束されざるを得ない。」と説明しています。

 

 彼は太平洋戦争時には戦闘海域が3千キロ~4千キロという広範囲にわたっていたので、一極集中の「連合艦隊」型ではなく、司令部の位置付け、機構、機能を見直し、新しい変化に対応する体制を創造するべきであったと述べています。

 

 連合艦隊は昭和191944)年10月のレイテ沖海戦で事実上壊滅しました。