今日は図書館は人が多かったです。たぶん中学生や高校生も夏休みが始まったのでしょうね!
さて、「従順」についての続きをまた話していきたいと思います。
あなたが主に従う方法を主が備えてくださったのは,どのようなときでしたか。
従うべき戒めに大小はない
時々,ある戒めがあまり重要でないように思われることがあります。聖典には,そのような考えを持っていたナアマンという人の話が出てきます。ナアマンは恐ろしい病に苦しんでいたため,スリヤからイスラエルへ行き,預言者エリシャに癒いやしてほしいと頼みました。
ナアマンは自国で高い地位にあったので,エリシャが自ら出迎えず,代わりに僕を遣わしたことに腹を立てました。さらに,ヨルダン川で7回体を洗いなさいというエリシャの伝言を聞いて,なお憤慨しました。
「ダマスコの川……はイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか。」
こう言い残すと,ナアマンは怒って立ち去りました。しかし僕たちが言いました。
「預言者があなたに,何か大きな事をせよと命じても,あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか。」
ナアマンは賢い人であったので,どんなに小さなことのように見えても神の預言者に従うことが大切であると悟ったのです。そしてヨルダン川で身を洗い,癒いやされました。
時には戒めが難しすぎてとうてい従えないと思うことがあるかもしれません。ニーファイの兄たちのように,「神の求めておられることは難しい」と言うかもしれません。
しかし,わたしたちはニーファイのように,神が命じられることには,人が従えるように神によって道が備えられており,それでなくては,神は何の命令も人に下されない,と確信することができます。
主がアブラハムにその愛する息子イサクを犠牲としてささげるように命じられたのは,「難しいこと」でした。イサクはアブラハムが長い間待ち望んだ息子であり,その誕生は神から約束されていました。
その息子をどうして犠牲にして失うことができるでしょうか。この命令は,アブラハムにとってきわめて難しいものであったに違いありません。それでも,アブラハムは神に従うことを選んだのです。
わたしたちも神のあらゆる要求に進んで応じなければなりません。預言者ジョセフ・スミスは次のように述べています。
「わたしは……次の規則に従うようにしています。『主が命じられるなら,行いなさい。』」
これはわたしたちも主義にすることのできる言葉です。
小さなことに思われた戒めに従った結果として祝福を受けた経験に,どのようなものがありますか。
イエス・キリストは御父に従われた
イエス・キリストが御父に従われたことについて考えるとき,どの模範を思い起こしますか。
イエス・キリストは天の御父に対する従順さを示す卓越した模範でした。主は次のように言っておられます。「わたしが天から下ってきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6:38)
イエスは生涯を通して御父に従われました。これは必ずしも容易なことではありませんでした。イエスはほかの死すべき人間と同じようにあらゆる試練を受けられたのです。
ゲツセマネの園において,イエスは次のように祈っておられます。「わが父よ,もしできることでしたらどうか,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし,わたしの思いのままにではなく,みこころのままになさって下さい。」(マタイ26:39)
イエスはすべてのことにおいて御父の御心に従われたので,すべての人の救いを可能にされたのです。
救い主の模範を思い出すことは従順になるためにどのように役立ちますか。
「従順」であることは正直に生きるために重要な事ですね。私もイエス様みたいに神様に対して従順でいたいですね。
ではまた明日~!(^^)!
さて、「従順」についての続きをまた話していきたいと思います。
あなたが主に従う方法を主が備えてくださったのは,どのようなときでしたか。
従うべき戒めに大小はない
時々,ある戒めがあまり重要でないように思われることがあります。聖典には,そのような考えを持っていたナアマンという人の話が出てきます。ナアマンは恐ろしい病に苦しんでいたため,スリヤからイスラエルへ行き,預言者エリシャに癒いやしてほしいと頼みました。
ナアマンは自国で高い地位にあったので,エリシャが自ら出迎えず,代わりに僕を遣わしたことに腹を立てました。さらに,ヨルダン川で7回体を洗いなさいというエリシャの伝言を聞いて,なお憤慨しました。
「ダマスコの川……はイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか。」
こう言い残すと,ナアマンは怒って立ち去りました。しかし僕たちが言いました。
「預言者があなたに,何か大きな事をせよと命じても,あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか。」
ナアマンは賢い人であったので,どんなに小さなことのように見えても神の預言者に従うことが大切であると悟ったのです。そしてヨルダン川で身を洗い,癒いやされました。
時には戒めが難しすぎてとうてい従えないと思うことがあるかもしれません。ニーファイの兄たちのように,「神の求めておられることは難しい」と言うかもしれません。
しかし,わたしたちはニーファイのように,神が命じられることには,人が従えるように神によって道が備えられており,それでなくては,神は何の命令も人に下されない,と確信することができます。
主がアブラハムにその愛する息子イサクを犠牲としてささげるように命じられたのは,「難しいこと」でした。イサクはアブラハムが長い間待ち望んだ息子であり,その誕生は神から約束されていました。
その息子をどうして犠牲にして失うことができるでしょうか。この命令は,アブラハムにとってきわめて難しいものであったに違いありません。それでも,アブラハムは神に従うことを選んだのです。
わたしたちも神のあらゆる要求に進んで応じなければなりません。預言者ジョセフ・スミスは次のように述べています。
「わたしは……次の規則に従うようにしています。『主が命じられるなら,行いなさい。』」
これはわたしたちも主義にすることのできる言葉です。
小さなことに思われた戒めに従った結果として祝福を受けた経験に,どのようなものがありますか。
イエス・キリストは御父に従われた
イエス・キリストが御父に従われたことについて考えるとき,どの模範を思い起こしますか。
イエス・キリストは天の御父に対する従順さを示す卓越した模範でした。主は次のように言っておられます。「わたしが天から下ってきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6:38)
イエスは生涯を通して御父に従われました。これは必ずしも容易なことではありませんでした。イエスはほかの死すべき人間と同じようにあらゆる試練を受けられたのです。
ゲツセマネの園において,イエスは次のように祈っておられます。「わが父よ,もしできることでしたらどうか,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし,わたしの思いのままにではなく,みこころのままになさって下さい。」(マタイ26:39)
イエスはすべてのことにおいて御父の御心に従われたので,すべての人の救いを可能にされたのです。
救い主の模範を思い出すことは従順になるためにどのように役立ちますか。
「従順」であることは正直に生きるために重要な事ですね。私もイエス様みたいに神様に対して従順でいたいですね。
ではまた明日~!(^^)!