おはようございます。もう8月も終わりですね。。
暑い夏もようやく残暑になりかけてますね。
さて、今回も「犠牲」についてお話していきます。
持っているものすべてを喜んで主にささげなければならない
人々が進んで犠牲を払うのはどうしてでしょうか。
使徒パウロは,わたしたちが「神に喜ばれる,生きた,聖なる供え物」になるべきであると述べています。
わたしたちが生きた供え物になるのであれば,地上に神の王国を打ち立て,シオンを起こすために,自分の持っているものすべてを末日聖徒イエス・キリスト教会に喜んでささげられるようでなければなりません。
若くて裕福な役人が救い主にこう尋ねました。
「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか。」
イエスは答えて言われました。
「いましめはあなたの知っているとおりである,『姦かん淫いんするな,殺すな,盗むな,偽証を立てるな,父と母とを敬え。』」
するとその裕福な青年は言いました。
「それらのことはみな,小さい時から守っております。」
イエスはこれを聞いて言われました。
「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って,貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば,天に宝を持つようになろう。そして,わたしに従ってきなさい。」
青年はこの言葉を聞いて悲しみました。大金持ちで,富に心を奪われていたからです。
この若い役人は善人でしたが,イエスから求められたときに進んでこの世の財産をささげようとはしませんでした。これに反して,主の弟子であるペテロとアンデレは,神の王国のために喜んですべてを犠牲にしました。
イエスが「わたしについてきなさい」と言われると,「彼らはすぐに網を捨てて,イエスに従った」のです(マタイ4:19-20)。
この弟子たちのように,わたしたちは日々の働きを犠牲として主にささげることができます。「御心が成りますように」と言うことができます。アブラハムもそうした一人です。
アブラハムはキリストが誕生される以前,まだ犠牲と燔祭が要求された時代に地上に住んでいました。主はアブラハムの信仰を試すために,息子イサクを犠牲としてささげるように命じられました。
イサクはアブラハムとサラの間の一人息子でした。イサクを犠牲としてささげるようにという命令は,アブラハムにとって堪え難いことでした。
それにもかかわらず,アブラハムとイサクは長い道のりを旅し,モリヤの山へ行きました。そこが燔祭をささげる場所でした。二人は3日間旅しました。
このときのアブラハムの心情と苦しみを想像できるでしょうか。息子を犠牲として主にささげなければならないのです。モリヤの山に到着したとき,イサクはたきぎを背負い,アブラハムは火と刃物を持って,祭壇を築く場所に行きました。
イサクは言いました。「父よ。……火とたきぎとはありますが,燔祭の小羊はどこにありますか。」
アブラハムは答えて言いました。「子よ,神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう。」
そしてアブラハムは祭壇を築いてその上にたきぎを並べると,イサクを縛ってたきぎの上に乗せました。アブラハムは刃物を取ってイサクを殺そうとしました。
その瞬間,主の使いが彼を呼んで言いました。
「アブラハムよ,……わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子,あなたのひとり子をさえ,わたしのために惜しまないので,あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った。」
もはや息子を犠牲にする必要のないことを知ったとき,アブラハムはどんなにかうれしかったことでしょう。しかしながら,アブラハムの主への愛は,主に求められたすべてのことを進んで行うほど深いものでした。
あなたが知っている人々の生涯から,これまでにどのような犠牲の模範を見てきましたか。先祖の生涯や,初期の教会員の生涯,聖文に登場する人々の生涯から,どのような犠牲の模範を目にしてきましたか。これらの模範から,どのようなことを学んできましたか。
私たちもアブラハムのように全てを「犠牲」にしなければなりません。いつも主を思い自らを捧げるならば神様は天においてたくさんの宝を用意してくださっていることを知っています。
暑い夏もようやく残暑になりかけてますね。
さて、今回も「犠牲」についてお話していきます。
持っているものすべてを喜んで主にささげなければならない
人々が進んで犠牲を払うのはどうしてでしょうか。
使徒パウロは,わたしたちが「神に喜ばれる,生きた,聖なる供え物」になるべきであると述べています。
わたしたちが生きた供え物になるのであれば,地上に神の王国を打ち立て,シオンを起こすために,自分の持っているものすべてを末日聖徒イエス・キリスト教会に喜んでささげられるようでなければなりません。
若くて裕福な役人が救い主にこう尋ねました。
「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか。」
イエスは答えて言われました。
「いましめはあなたの知っているとおりである,『姦かん淫いんするな,殺すな,盗むな,偽証を立てるな,父と母とを敬え。』」
するとその裕福な青年は言いました。
「それらのことはみな,小さい時から守っております。」
イエスはこれを聞いて言われました。
「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って,貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば,天に宝を持つようになろう。そして,わたしに従ってきなさい。」
青年はこの言葉を聞いて悲しみました。大金持ちで,富に心を奪われていたからです。
この若い役人は善人でしたが,イエスから求められたときに進んでこの世の財産をささげようとはしませんでした。これに反して,主の弟子であるペテロとアンデレは,神の王国のために喜んですべてを犠牲にしました。
イエスが「わたしについてきなさい」と言われると,「彼らはすぐに網を捨てて,イエスに従った」のです(マタイ4:19-20)。
この弟子たちのように,わたしたちは日々の働きを犠牲として主にささげることができます。「御心が成りますように」と言うことができます。アブラハムもそうした一人です。
アブラハムはキリストが誕生される以前,まだ犠牲と燔祭が要求された時代に地上に住んでいました。主はアブラハムの信仰を試すために,息子イサクを犠牲としてささげるように命じられました。
イサクはアブラハムとサラの間の一人息子でした。イサクを犠牲としてささげるようにという命令は,アブラハムにとって堪え難いことでした。
それにもかかわらず,アブラハムとイサクは長い道のりを旅し,モリヤの山へ行きました。そこが燔祭をささげる場所でした。二人は3日間旅しました。
このときのアブラハムの心情と苦しみを想像できるでしょうか。息子を犠牲として主にささげなければならないのです。モリヤの山に到着したとき,イサクはたきぎを背負い,アブラハムは火と刃物を持って,祭壇を築く場所に行きました。
イサクは言いました。「父よ。……火とたきぎとはありますが,燔祭の小羊はどこにありますか。」
アブラハムは答えて言いました。「子よ,神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう。」
そしてアブラハムは祭壇を築いてその上にたきぎを並べると,イサクを縛ってたきぎの上に乗せました。アブラハムは刃物を取ってイサクを殺そうとしました。
その瞬間,主の使いが彼を呼んで言いました。
「アブラハムよ,……わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子,あなたのひとり子をさえ,わたしのために惜しまないので,あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った。」
もはや息子を犠牲にする必要のないことを知ったとき,アブラハムはどんなにかうれしかったことでしょう。しかしながら,アブラハムの主への愛は,主に求められたすべてのことを進んで行うほど深いものでした。
あなたが知っている人々の生涯から,これまでにどのような犠牲の模範を見てきましたか。先祖の生涯や,初期の教会員の生涯,聖文に登場する人々の生涯から,どのような犠牲の模範を目にしてきましたか。これらの模範から,どのようなことを学んできましたか。
私たちもアブラハムのように全てを「犠牲」にしなければなりません。いつも主を思い自らを捧げるならば神様は天においてたくさんの宝を用意してくださっていることを知っています。