おはようございます。
今日はもう土曜日ですね。曜日感覚が少しおかしくなって来ました。。

さて、今回は「犠牲」についてお話したいと思います。

犠牲の意味

犠牲とは,神の業を推し進めるために,時間やこの世の財産,労力など,主が求められるものは何であろうと主にささげることです。主は次のように命じられました。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。」(マタイ6:33)喜んで犠牲をささげるかどうかが,神に対する献身の度合いを示します。人はその生活において,神のことを第一に行うか否かを常に試されています。

主から求められるとき,見返りを期待せずに犠牲をささげることが大切なのはなぜでしょうか。

昔,犠牲の律法が実施されていた

昔,主の聖約の民が執り行っていた犠牲には,どのような意味があったのでしょうか。

アダムとエバの時代からイエス・キリストの時代まで,主の民は犠牲の律法を守ってきました。民は群れの初子を犠牲としてささげるように命じられていました。

こうした動物は完全で傷のないものでなければなりません。この儀式は,天の御父の長子であるイエス・キリストの降誕を思い出させるために与えられました。

イエスはあらゆる点において完全であり,人類の罪のために自らを犠牲としてささげられるのです。(モーセ5:5-8参照)

イエスは事実この世においでになり,あらかじめ知らされていたとおりに自らを犠牲としてささげられました。イエスの犠牲により,すべての人は復活して肉体の死から救われ,イエス・キリストを信じる信仰により自分の罪から救われるようになったのです(本書第12章参照)。

キリストの贖いの犠牲は血を流す犠牲の終わりを告げるものでした。そのような外形的な犠牲に取って代わったのが聖餐の儀式です。

聖餐の儀式は,救い主の偉大な犠牲を思い起こすために与えられました。わたしたちは度々聖餐を受ける必要があります。象徴としての聖餐のパンと水は,傷ついた救い主の体とわたしたちのために流された血とを思い出させてくれます。

贖罪が最後の大いなる犠牲と考えられているのはどうしてでしょうか。

わたしたちは今日こんにちも犠牲を払わなければならない

今日のわたしたちは,どのように犠牲の律法を守っているでしょうか。

血を流す犠牲は終わりを告げましたが,主は現在もわたしたちに犠牲をささげるよう望んでおられます。しかし,今日主が求められる犠牲は古代のそれとは異なっています。主は次のように言われました。

「あなたがたは,もはや血を流すことをわたしへのささげ物としてはならない。あなたがたの……燔祭は取りやめなさい。……あなたがたは打ち砕かれた心と悔いる霊を,犠牲としてわたしにささげなさい。」(3ニーファイ9:19-20

「打ち砕かれた心と悔いる霊」とは,自分の罪を深く悲しみ,敬虔になって罪を悔い改めることです。

犠牲はとても大事ですね。私は犠牲とはより良いもののために良いものを諦めることだと思います。
神様を第一に時間と心を捧げましょう!(^^)