現物や現場を直接見ることなく、見たのと同じように言い当てたり、言葉で再現できたり、というような能力を持つ人間がこの世にいるのだろうか?そういう超能力と呼ばれる能力を持つ人間がいるという話は聞いたことがあるから、全くのゼロではないだろうとは何となく思ってはいた。実は、妻に対しても「もしかしたら、この女、物や現場を、見ることなく見たのと同じように認識できる能力を少しばかりは持っているのかもしれない」という疑いを持ったことはあったが、その度に「まさか、そんな馬鹿な」とこれまで思い流していた。冷静に考えればそうであろう。そんな非科学的なことがあるわけがない。

 だが、例の問題である。どうしたらいいものか。このまま何事もなかったかのようにやり過ごすべきか、それとも、なぜ知っているのか、どうやって知ったのか、そのこと自体をどう思っているのか問いただすべきか。わたしの方も何らかの釈明をすべきなのか。

 

 

 わたしの女装人生において、いつかは起きるかもしれないという大事件がとうとう起きてしまいました。十数年前にお気に入りされたちょっと反社風アンチャンにホテルに連れ込まれて、ベッドの上でわたしが反抗的な態度を取ったものだから、そのアンチャンの機嫌を損ねて殺されかけたとき以来の大事件です。

 

 

 その大事件のことは後ほどにして

 まずは、改めて「女装の楽しみ方」についてです。話は半年ほど遡りますが、約8年ほど勤めた会社を辞めました。退職金がちょろっと出ました。そんなことはどうでもいいのですが、旧態依然の業界で、どうにも改革ができない時代遅れの業界でした。今では多くの利用者・消費者を抱える業界に発展してはいるのですが、その利用者・消費者の人生を直撃しようとしている待ったなしの今にも大爆発しそうな問題を抱えている業界でもあるし、また一方で働く人間はと言うと、夜や休日を使って所定業務を片付けるのが前提になってしまっていて、どうにもこうにも、何のための会社か、何のための仕事かと、こんな業界や会社のために働くなんてバカバカしくてやってられない、ということでさっさと辞めたわけでした。そして、幸いにも、この度、再就職が内定しました。わたしは、もちろん中高齢者の部類に入ります。就職活動は困難を極めるものと覚悟していましたが、ありがたいことです。

 就職活動に臨むにあたり、残りの人生をどう過ごせればいいのか考えました。もちろん楽しく過ごせればいいに決まっています。では、そのわたしにとっての楽しいとは何なのか。わたしにとっての楽しいとは、今では言うまでもなく、女装です。さっさと足を洗いたいと考えていた女装だったのですが、言い切るとは恐ろしいものです。8年前、その辞めた会社への就職が決まったのを機に再開した女装でしたが、辞めるまでのこの約8年間は、心底楽しめるものではありませんでした。金、土、日もエンドレスに湧いてくる旧態依然の時代遅れのどうでもいいような業務、いついつまでに○○を作成しなければなどと、時代遅れの業務に付き合いながら、こなしながらでは、何のための女装なのか、女装の最中にでもお客様からはどうでもいいような、「そんなことぐらい自分で考えろ」とか「そのくらい自分でやれ」と、怒鳴り返したくなるような電話も茶飯事でした。せっかく女装してその気になっているときにかけてこられたら興ざめです。仕事なんだから仕事を優先して女装なんか後回しと言っていたんでは、いつになったら女装ができるかわかりません。女装ができなくては意味がありませんし、するなら間隔を空けずにやらなくてはせっかく会得できたメイクテクを保つことができません。

 今回、内定した仕事は夜勤の仕事です。所定の勤務時間以外を使って、何かを作成、点検、確認しなければいけないなどというようなことはないと思います。不定期ではありますが、所定の日数分の休日が与えられますので、計画的に数か月に1回くらいで、いつも献身的にわたしを支えてくれている妻と近場への一泊程度の温泉旅行を楽しみたいと考えています。また旅行以外の休日はもちろん女装です。勤務ということにすればそれでアリバイとなります。今から楽しみです。夜の8時くらいから準備を始めて10時くらいに完成して、飲み食い、お出かけなどを楽しんで、日の出の頃に解除して帰路に向かう。もうやるべきことはすべてやりつくして夜明けまで女装を楽しんだとして、悔いなく解除するというのが女装の正しい楽しみ方だと思います。ライバルとどっちがいい女か決着付けたいのに、次の日のどうでもいいような形式にこだわるような業務のために早めに解除して逃げ帰るように帰路に着かなければならないようなことはもうないと思います。お出かけや出会いの機会も増えることと思います。わたしの新たな女装ステージの開幕です。

 

 となる運びでしたが、大事件発生です。

 先日のことです。

「どうせ、また、女の子の格好して写真撮りに行ってたんでしょう」

と妻。

「?! ! !」

一体いつから? どうやって? なぜ?

こんなときは、どうしたらいいのか?聞いてみたいが、聞けるはずはない。

ピンチです。

 

 

 

 

うわっ、

この異常な緊張感

大勢のモデルの卵のようなお姉さん達の真剣な視線

その先にいるのはハ〇頭のおっさん

ちょっと油断したら「プッ」て吹き出しそうで、それを必死にこらえているようなお姉さんも何人かいるような

でも、「元ミス〇〇優勝」とか「元ミス○○代表」とかの肩書の先生よりも、こんなハ〇頭のおっさんから教えてもらった方が、「俺にもできるんじゃないか?」なんてその気になったりして、美しい歩き方をイメージし易いような、特に我々女装者にとっては。

ハ〇頭だろうが、おっさんだろうが、美しく歩けばそれだけで全身が美しく見えてしまうということ。

 

 

 

 

自民党・山東昭子前参議院議長「私は心と体がアンバランスな方に対しては、差別という意識はありません。しかしやっぱり区別をしていただきたいと思っております」

 

山東議員のコメントに「なるほど、やっぱり、そうだよな」と納得していた

わたしでした。

が・・・。

 

 

松尾貴史氏「LGBTの人を指して『心と身体がアンバランスな方々』と言うのやめろ。そりゃただの偏見。アンバランスなんかじゃなくて、そういうバランスなんだよ」

「この人『差別はしません、区別はします』という、昭和に滅びたような屁理屈を付け加えていました。アンバランスなのは山東昭子の考え方です」

 

松尾氏のコメントに

「なるほどな。その通りだよな」と納得させられた わたしでした。

わたしは当事者ではないけれども

 

難民ではないのに難民のふりをして入国しようと何回も申請を繰り返す者が相当数いるから・・・か?

悪いことをしようと企む輩がいるからということか?

 

「全ての国民が安心して生活できるよう留意する」との文言つき。女湯に入ったり、女子トイレに入ったり、LGBTのふりをして悪いことをしようと企む輩が出てくることに不安を抱えている人たちが少なくないからとのこと。「全ての」だから、一人でも安心できない人がいるのであれば権利は認められない可能性が大きいということか?

 

夫婦とは何かを考えたときに、「人生を満足した、充実した、成功したものに近づけるためのパートナー」であれば、相手が男だろうが、女だろうが、関係ないはず。

 

わたしの女装も最終局面にさしかかっているものと思います。

 「興味もない女性アイドルを調べたり。架空の彼女を仕立てたり」

 とは、同性婚訴訟原告のある男性同士のカップルのお一人の方の経験談です。6月4日の新聞からです。性的指向を周囲に隠すために取った行動とのことです。わたしには同性愛の指向はありませんが、共感する所は大いにあります。

 女性アイドル本人には興味はなくて、本当に興味があるのはその身に着けている衣装なのに、本人に興味があるようなふりをしてグラビアを眺めたり、欲しいのは彼女ではなくて女性服で、どうやったら手に入れることができるのかばかりを考えていたけども、知人から「彼女はできたか」とか聞かれても「彼女が欲しいんだが」と答えていました。

 今、こうして女装を楽しんでいます。もちろん大っぴらに公言できるものではありませんが。サロンの会員ロッカーを確保して、何の抵抗もなくブラジャーに腕を通して、ショーツに脚も通します。そして何とメイクまで自力で施してしまうのです。ここに至るまで、半分くらいは迷いや自己嫌悪があったりで、ずいぶんと長い年月を要したと思います。この迷いや自己嫌悪があった期間、ざっと約20年ぐらいでしょうか、をどこかへ葬り去って、迷いとも自己嫌悪とも最初から無縁だったという状態で女装ライフを再スタートできないものだろうか、と馬鹿なことを思ったりもしてみます。

 わたしの場合、多くの誰もがそうでしょうが、「女装はやった方がいいぞ」「絶対にやれよ」と誰かに勧められたことなどありませんでした。むしろ逆だったと思います。今と違ってSNSなど無くて情報に乏しかった時代に、テレビの深夜番組は貴重な情報源でした。そこからたまに女装サロン(おそらくエリザベス会館だったと思います)を扱った放送回を視ることがありました。もちろんまだ女装は未経験の頃です。その度に、「やらない方がいい」「やるもんじゃない」「やめておこう」と決意を新たにしたものでした。番組の出演者(今で言うところのコメンテーター)の反応が否定的でした、特に女性出演者の方の気持ち悪い嫌なものを見てしまったというような。今にして思えば怖いもの見たさの編成だったのでしょう。それでも、結局は自らの足で多大なエネルギーを費やしてまでも女装サロンまで辿り着いてしまったのですからそういうものだったのでしょう。

 

 

これは冒頭に紹介した同性婚訴訟原告のある男性同士のカップルの方も同じだと思います。「同性愛はいいぞ」「絶対にやれよ」などと誰かに勧められたことなどはなかったはずと思います。むしろ「やめておけ」だったと思います。

 抑えても、我慢しても絶対無理。不幸にしかならない。女装もそうだと思います。

 

昨年11月以来の記事投稿です。

 

何で、こんなに空いてしまったのか、理由がありまして

 

 わたしは、よく、「女装 ◇□」とか「女装 〇△」という具合に、女装と他単語をセットにしての検索を試みます。セットにする例としては「女装 スカート」とか「女装 メイク」「女装 歩き方」など具体的な物や行為であったり、「女装 心理」とか「女装 メリット」「女装 人生」とか目に見えない物であったりとか、様々です。何でもかんでもとにかく女装とセットにしてしまいたいのかもしれませんが、新たな発見があることもあります。

 そんな昨年の暮れだったか、「女装 ・・・」と思いついて画像検索したところ、何とわたしの女装画像がずらずらと画面上に羅列されたものだから、いっぺんに怖くなってしまいました。一般の会話の中にもしょっちゅう登場する何でもない単語なんですが、それが「女装」とセットになると、わたしの女装画像に直結してしまうという現実に怖くなって投稿を控えていたという次第です。今や誰でもスマホを持っている時代です。誰でもふと思い浮かんだ言葉をセットにして検索を試みるぐらいのことは珍しくはないでしょう、そんな所から女装バレに火が付くとも限りません。そのとたんに、突発的にブログの閉鎖や女装そのものを辞めるということも思い浮かびましたが、ちょっと冷静に考えてみると、女装バレしたところで今更失うものはありませんし、女装は死ぬまで辞められないという覚悟の下でやっていましたから、 そこまでにはに至らずに、ただブログを離れて女装を楽しんでいました。また、3月には、出しても出しても退職願を突っ返してくる不合理な会社とおさらばできたことも相俟って、この間、メイクと女装ファッションならびにこれからのわたしの女装についてじっくりと研究していたところです。

 気がつけば、すぐそこに女装があった人生になるのでしょうか。

 こんなことさっさと辞めなければいけないと思いながら、何が楽しいのかもわからないまま、一人でただ着ては脱いでを繰り返していただけの「首下期」。ブラ&ショーツ1セットを隠し持って年に1度の完全女装を楽しんだ「手ぶらサロン期」。いつでも女装を楽しめる環境を手に入れて楽しんだ「自力完全女装期」。潔く移行したつもりだった「引退期」。変身する場所をサロンに限定されてはいますが「復活完全女装期」。

 いつかは辞めなければ、でもそのうち飽きるだろうから、いつかは辞めるだろう。やっぱり辞めた。でも、復活した。そして今に至っています。

 

※行為をやめるのですから「女装をやめる」は「女装を止める」が正しいと思いますが、そこには単にやめるのではなく、大きな覚悟が伴いますので「女装を辞める」を使用しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

人生は一度きり。そして長い。今では80年か。

その人生は、男か女かのどちらかで生きなければならないと規定されてしまっている。それを早い段階で、人生経験が浅いうちに、「もう一方の方がいい」という選択も今ではありなのか。いや、その方がむしろいいのか。

 

 

 

 

 

女装として楽しみながら、バランスを取りながら、男性としての人生を送るという選択はないのだろうか?

この分野のカウンセラー、アドバイザー、コンサルタント等の方々は女装という趣味の領域を超えた処方をどの程度ご存じなのだろうか。「右か左か早いうちに決めたほうがいい」という切迫した観念に囚われていなければいいですが。