長いです。
舞台の上の世界は単に現実世界のリアルな再現ではなく、人物はただ一人の個人ではなく、象徴性を内包した個人であるという事実を私たちは認識しなければならない。
…のだそう。実に深遠なお話だったんだ。
(元記事)
「不倫美化ドラマ」。この作品にタグのように付いてくる修飾語だ。しかし果たしてミュージカル〈マディソン郡の橋〉を単に個人間の不倫としてだけ見るのが正しいだろうか?舞台の上の世界は単に現実世界のリアルな再現ではなく、人物はただ一人の個人ではなく、象徴性を内包した個人であるという事実を私たちは認識しなければならない。そうすると、フランチェスカとロバートはそれぞれ何らかの意味を内包している人物であり、彼らが恋に落ちるしかなかった理由、さらに彼らの愛の意味と価値は何かについてもう一度考えてみる必要がある。
作品の背景となる1965年のアイオワ州(マディソン郡は米国アイオワ州にある郡)は、保守的で閉鎖的な農村地域社会で、人々は村を訪れる他人に疑いの目を向け、お互いを監視し、評価しながら暮らしている。女性は妻として母親として暮らしながら子供を養育し、男性は家の一家長として農業と牧畜で生計を維持した。1965年は第二次世界大戦が終わってから20年になる年で、アメリカは戦勝国として世界を制覇した。同時にベトナム戦争を戦い、女性の役割に対する認識が変化し、伝統的な主婦の生活から抜け出そうとする女性たちが生まれ、黒人の権利伸長のための民権法が可決されるなど、社会的に混乱と激変の時期を通過していた。
これを調べるためには、2つの点に注目する必要がある。一つは、フランチェスカがイタリアからアメリカに来た移民で、ロバートはアメリカ出身のナショナルジオグラフィック写真家である点だ。もう一つは、フランチェスカはアイオワに住んでいて、ロバートはテキサス出身だという点。フランチェスカは「戦争によって無力に夢、さらに自我を失った」人だ。イタリアは第二次世界大戦当時、アメリカと敵国だったのに同盟国に転じたが、国民は戦争の混乱と痛みをそのまま経験しなければならなかった。これは世界を歩き回り、絵を描きたいという夢を持っていた少女フランチェスカにとっても例外ではなかった。自由を失った状態で自由を求めてバードに付いてアメリカに来たフランチェスカは、移民が英語を学び、アメリカ社会に同化することを望ましいとしていた当時の社会思想に従って、イタリア人としてのアイデンティティを去勢されたままアメリカ人として生きることを強いられた。彼女には、ただ、典型的あるいは伝統的なアメリカの白人中流階級の家庭の妻であり、母親としての生活だけが許されたのだった。故郷を懐かしがることもなく、行くこともできなかったが、それでもフランチェスカは夫との電話の最後の言葉にはいつも「チャオ(チャオ、イタリア圏で一般的に使われる挨拶)」と付け加えて、自分の根源的なルーツを忘れないようにした。
一方、ロバートはアメリカのテキサスで生まれ、アメリカ人だが自分の故郷に留まらず「世界中を歩き回りながら各地で起こるあるいは見える現象/人を撮って記録する」写真家だ。テキサスは、1836年から1845年の間、アメリカ国内で唯一の独立国であった唯一の州であり、アメリカ西部開拓時代の象徴としてよく言及される。時としてロバートに垣間見える自由であちこちを漂うカウボーイのイメージは、アメリカの開拓精神を示すと同時に、高い自立性と自律性を強調する。ところが、1960年代のアメリカは─本作品でもヒッピーに対する否定的な認識が蔓延していることを繰り返し示しているように─戦後帰還した男性を中心に一か所にとどまり、家を建て、安定した家庭を築くことが一つの理想的な生活として規定された時代だった。そのため、ロバートは家族と連絡が途絶え、定点無くさまよう職業のために妻に離婚される。つまり、フランチェスカは根本はイタリア人だが、極めてアメリカ的な人生を生きており、ロバートはアメリカ人だが、最もアメリカ的ではない人生を生きている人物になる。これを視覚的、明記的に示すのが、家に帰るといつも靴を脱ぐフランチェスカと、いつも靴を履いているロバートの相反する姿だ。
フランチェスカは戦争のスケープゴートであり、ロバートは社会を記録する人だった。当時のジオグラフィック写真家たちは単に写真を撮る人たちではなかった。彼らはアメリカと世界をつなぐ文化調停者として、アメリカ中心の思考観から離れて外の世界の風景と多様な生き方を記録した。フランチェスカとロバートの出会い、さらに彼らの愛は単に個人的な出会いではなく、戦争で敵対国だったアメリカとイタリアの間の和解であり、同時にアメリカの伝統的な価値観を代弁するアイオワとその反対側にある独立性と自律性を象徴するテキサスの出会いである。喪失の感情を感じた彼らの傷縫合の場であり、アメリカ内で二分化していたものが向き合う時間だ。お互い違う理念を持って生きる人たちの対面、そしてお互いを理解することによって発生する愛は、痛みや葛藤のような否定的な感情を完全に癒すことができる瞬間をプレゼントし、これは生涯に一度しか来ないほど極めて珍しい瞬間だ。
だからこの作品はアメリカの国家アイデンティティと個人アイデンティティを反映してきた「アメリカミュージカル」が社会の巨大な渦の中でどうしようもなく、無力に流されて自分の大切な夢と自我アイデンティティ、存在さえ失ったまま人生をただ生きていく人たちに伝える一つの贖罪であり、慰めとして読まれる。さらに、戦争という巨大な人間史の悲劇でなくても、現在私たちは依然として個人のコントロールが及ばない社会の流れの中で自分が真に望むものを簡単に去勢されたまま、社会の枠組みに合わせて生きていく。私たちは本当の自分を失ったまま、感情は深い深淵に埋めたまま毎時間を過ごしてきた。誰かに心から慰められ、誰かを通じてその傷を克服しながら自分の忘却されていたアイデンティティを見つけられる機会は誰にも与えられず、極めて稀だ。だから観客は舞台の上のフランチェスカとロバートを見て代理の慰めと癒されるのを感じ、涙を流すしかないのだ。
これは結局人生を生き抜いたフランチェスカの話:時代の犠牲者から主体へ
ミュージカル〈マディソン郡の橋〉は一見すると、フランチェスカとロバートの愛だけに焦点を当てているように見えるが、そうではない。実は、この作品の一番の核心は、自分の存在を忘れて生きていたフランチェスカが自分の存在を探しに行く旅路にある。だから作品のオープニングも、クロージングもフランチェスカだ。フランチェスカがどうやってイタリアのナポリを離れてアメリカのアイオワに来ることになったのか、そして今までどんな人生を生きてきたのかを説明する自叙伝的ナンバー (I AM SONG)「家を建てる」で劇が始まる。戦後はすべてが破壊された状態で、人間は自分たちの安定した定住的な生活を送るために本能的に家を欲しがるようになる。また、イタリアを離れてアメリカに来て新しい名前を持ち、新しい言葉を使って生活するようになった移民のフランチェスカにとり、家を建てるということは、以前の人生を捨てて新しいここの生活に完全に集中するということを示唆する。そうして偶然出会ったロバートによってナンバー「家を建てる」で表れたワルツ風のメロディーはナンバー「何だったんだろう」と「私を揺さぶるな」を経て次第に不安なメロディーに発展する。そして結局、フランチェスカはロバートと恋に落ちることになり、ナンバー「長い時間を渡って」を歌いながらお互いの気持ちを確認する。
その後、フランチェスカは自分の言えなかった過去をすべてロバートに打ち明ける。先に述べたように、フランチェスカは単なる移民者ではない。戦争の惨めさの中であまりにも無力だった若くて夢多き少女は、自分の本当の存在をイタリアにすべて置いて、アメリカに渡ってきた。つまり、フランチェスカには家があったが、家にいなかった。そして世界中をさまよって写真を撮るロバートには家がなかったが、彼は自分がやりたいことをしながら暮らしていたから家にいた。だからフランチェスカの不足はロバートによって埋められることになる。一人でこの町でイタリアの食べ物と文化を楽しんだフランチェスカは、自分の好みを表に出し、外に表に出せなかった寂しさをロバートに話す。フランチェスカはロバートと誰も好きではなかった、フェンネルを入れた野菜シチュー、モカポットで淹れたコーヒーを、久しぶりに故郷に来たように幸せに楽しむ。アイオワに来る前にナポリに滞在したロバートであるゆえに可能であり、ロバートがナポリの現在を収めた写真雑誌をフランチェスカにプレゼントすると、フランチェスカの止まった時間が流れだす。
ナンバー「あなたを知る前と後」、「たった一度の瞬間」でフランチェスカは「去ろう」と繰り返し言うロバートに、悩んだ末に「去ろう」と応える。しかし、現実を目覚めさせる夫の電話ベルの音、子供たちを捨てられなかったフランチェスカは、結局ロバートとの別れを選ぶ。フランチェスカは時代の犠牲だったが、胸が痛む自分の過去を言い訳しようとはしない。そして隠してきた過去の痛みをロバートと一緒に過ごしながら直面することによって、勇気を出して自分という人間について考えるようになる。4日の間にフランチェスカは変わった。彼女を変えた動機はロバートだった。妻/母親としての役割に対する道徳的防衛機構が作動したりもしただろうが、フランチェスカはすでに自分自身を見つけたので、すべてを捨ててロバートについていく必要はなかったのかもしれない。その後、フランチェスカは失っていた笑顔を取り戻し、人生の幸せを再び感じることができるようになる。彼女は家族に内緒でロバートに電話もしなかったし、妻と母の役割もより忠実に果たしていく。フランチェスカは娘を結婚させ、また悩みの種の息子を医学部に送るが、毎瞬間笑っている。フランチェスカはもはや過去に執着せず、故郷を懐かしむこともない。そうしてロバートの死後、受け取った一通の手紙を読みながらナンバー「大丈夫です。愛だから」を歌う。このナンバーでフランチェスカは自分の人生を思い返しながら良い人生ではあったが、それでも相変わらずロバートを愛していたし、今も愛していることを告白する。これを最後に “I AM SONG” で始めた、フランチェスカの話が “I AM SONG” で終わる。フランチェスカは自分が描いたロバートの姿と、ロバートが撮った自分の姿を交差的に配置しながら舞台の上で心が軽い様子で去っていく。ところが、このように、ミュージカルが追求する「真の自分になる(Be Yourself)」を探しに行くフランチェスカの話は、ただフランチェスカという一人の女性の断片的な人生を示すところで止まらない。フランチェスカは、現代の女性の姿(家父長制社会の中で誰かの妻または母親としてのみ生きなければならなかった)だけでなく、戦争という社会の構造的暴力によって自我を失ったその時代の人々の涙に満ちた物語を代弁する存在者だ。そして時代の犠牲者から結局、人生を生きる主体に進んだ強い女性だった。
フランチェスカと彼を見つめる二人の凝視者
この作品には、フランチェスカと他者として立っている二人の凝視者が存在する。ロバートはカメラで世界を見つめる者であり、彼は決してその世界に入らない。徹底した他者として世界と瞬間的にだけ向き合う。しかし、ロバートは続けて「私は相変わらず何かを探し回っています。時には時間が全部消されたまましばらく道に迷って迷います。カメラの中を見ると、私という存在は消えていく」(ナンバー「私はなぜここにいるのか」)と言うが、これは真の自我の欠如に見える。すべての人間個人は他者との関係を結ぶ中で自分の存在を規定することができるが、ロバートは他者と関係を結ぶのではなく、ただ表面的にだけ凝視(gaze)しているからだ。そうしてロバートがフランチェスカに会った瞬間、カメラを置いて凝視者としての位置から外れる。ロバートは「やっと分かった。長い時を越えて導かれて来た、あなたに。フランチェスカ。空を巡れば とどまる場所があるだろうか、しばらく飛んでやっと見つけたのはまさにあなた、今の私たち」(ナンバー「長い時間を渡って」)とフランチェスカに言う。フランチェスカとの出会いは、ロバートがこれ以上世界を一方的に「凝視」する場に留まることができないことを悟らせる。むしろ彼は自分が他者(フランチェスカ)の視線の中に捕らえられたという事実を自覚するようになり、凝視の反転を経験することになる。つまり、その瞬間ロバートは凝視の主体から凝視の対象(対象)に位置を転換することになり、このような変化を通じて自らの内面的欠乏と真の自我にようやく向き合うことになる。人間は凝視したいと同時に、凝視されたい本能的な欲求を持っており、その過程で自我を形成する。見つめられる存在になったロバートは、やっと世の中の中にいられるようになり、それまで家がなく居場所もなくさまよっていた状態でフランチェスカという家を発見し、幸福感を感じることができるようになる。しかしフランチェスカと別れたロバートは再び世界の外の凝視者に戻る。ロバートは主観的な絵を描くフランチェスカと違って、瞬間的・客観的で、目ではなくレンズという媒介を通じて、相が逆さまに結ばれる原理を持っているカメラで世界を見る。カメラは彼にとって彼を代弁するもう一つのアイデンティティとしての道具だ。このようにカメラが「主観」を必要としないということは、対象との相互作用を通じた感情と感覚の共有の欠如を意味する。だから最後に、ロバートが自分が撮ったすべての写真を燃やす時、自分の感情が込められていて、自分を世の中の中に入らせてくれたフランチェスカの写真だけは燃やせないのだ。ロバートにとってフランチェスカは単に強烈だが短く通り過ぎた愛する人ではなく、唯一彼を凝視者という孤独な視線から逃れさせてくれた存在だったからだ。
もう一人の凝視者は、まさに、フランチェスカ/バード夫妻と一番近い隣人であるチャーリー/マージー夫妻だ。チャーリー/マージー夫妻は、バードが農業博覧会にいる間にフランチェスカに起こったことをすべて知っているように描かれる。しかし、彼らはバード/フランチェスカ、フランチェスカ/ロバートの関係に全く介入しない。バードとフランチェスカと交流はするが、彼らは徹底的に第三者として、外部から彼らを見守る。フランチェスカとロバートをめぐる彼らの会話は、フランチェスカとロバートが舞台を離れたときだけ登場する。彼らは決して舞台の上に同時に存在しない。このような彼らの舞台上の登場時点と位置は、彼らが交わす会話は、もしかしたらこの作品の作家が観客に伝えようとするメッセージを代弁しているようにも見える。自分がフランチェスカのように恋に落ちたらどうしたかと尋ねるマージーの質問にチャーリーは「君にはそうする理由が十分あるだろう」と話す。マージー/チャーリー夫妻は、ロバートと禁じられた恋に落ちたフランチェスカを非難しない。(実は、バードもフランチェスカの不倫を知っているようだが、何の話もせず、死ぬ直前にフランチェスカの夢を叶えてあげられなくて申し訳ないと話す。)ただロバートと共に去るか、家庭を守るか混乱しているフランチェスカに近づくと、何気なく彼女を慰めるだけだ。そのため、マージー/チャーリー夫妻の短い会話は、作家がこの作品で観客がロバートとフランチェスカの間の愛を単に不倫ととらえて、道徳的・倫理的に非難の視点だけで見ることを望まなかったことを示す装置である。そして同時に、密かに、当時個人のアイデンティティと夢は失ったまま、誰かの妻であり母親としてだけ自分の人生を犠牲にして生きなければならなかった女性の理不尽な人生に温情の視線を送る。彼らは社会的固定観念から離れて主体的な人生を生きようとする女性が受けられるあらゆる攻撃が本当に妥当で、正しいと言えるのかという疑問を提起する。
元来、凝視の対象になる主体は、自分のアイデンティティを自ら定義する力を失ってしまうことが多い。凝視者が凝視する対象のアイデンティティを表面的に簡単に規定してしまうからだ。しかし、世界を客観的に記録しただけの凝視者であるロバートは、フランチェスカの人生について何の評価やアドバイスもしない。ただフランチェスカが完全に自分で決めるまで待つだけだ。チャーリー/マージー夫婦もまた、フランチェスカの行動についてとやかく言わない。もともと他人のアイデンティティを規定する権威的な権力を持っていた凝視者は、この作品ではその権力を捨てて、対象と関係を結びながらも、距離を置いて凝視の対象だったフランチェスカが自らのアイデンティティを探し出し、自身を確立できるように黙々と応援する。
「愛の物語」はもしかしたら陳腐な素材だったり、誰かには退屈な話かもしれない。しかし、愛の物語は、当時の社会的脈絡を比喩的に盛り込み、既存の社会体制に対抗する抵抗のメッセージを盛り込むこともあるという点で、軽く見えるがその何よりも深いものかもしれない。ミュージカル〈メンフィス〉で黒人のフェリシアと白人ヒューイの愛は人種差別が激しかった1950年代アメリカ南部テネシー州メンフィスで不合理な社会体制に抵抗し、社会を変えようとする行為だった。ミュージカル〈レ・ミゼラブル〉でコゼットに対するファンティーヌの愛、マリウスに対するエポニーヌの無償の献身的な愛は、囚人だったジャン・バルジャンが聖子に至るまで導く重要な役割をする。現在上演中のミュージカル〈私の騒がしい書林〉もまたロマンス小説の中に隠されている抵抗のメッセージを素材にしている。
ミュージカル〈マディソン郡の橋〉もやはり「愛」という慣れ親しんだ枠の中に隠れている、時代と社会、アイデンティティに関する質問を投げかける作品だ。もちろん、その愛は単なる愛ではなく、明らかに不倫という形であるという点で一般的な愛の話とは異なるが。しかし、「不倫」という道徳的境界外の愛は、より深く隠されていたメッセージを伝える上で、もしかしたら効果的な一つの手段かもしれない。フランチェスカとロバートの物語は、単なる感情の交流を超えて、社会的に許されなかった失われた自我の回復と、個人の存在が抑圧された構造の中で咲いた抵抗であり、癒しまたは慰めの記録だからだ。観客が流す涙はロマンチックな雰囲気に流されて無意識に流すものではない。各自内面の奥深くに位置する欠乏に直面し、その欠乏がいつの間にか癒されていると感じた感覚的で感情的な結果だ。結局、この作品は私たちに静かに手を差し出しながら聞く。今まで私たちは巨大な社会構造の中でどんな人生を生きてきたのか、これからどうやって生きていくのか。そして言う。これまで生きてきた人生、ご苦労様でした、と。