〈ソム〉ソロク島 関連映像2本 | 韓国ミュージカルを 訳しまくるブログ

韓国ミュージカルを 訳しまくるブログ

韓国ミュージカル
想像と創造だらけの翻訳
(注意: 目標はネタバレ100%)
近頃はメモ付き写真アルバムとしても使用中。

(雰囲気訳、省略、ダメ訳など満載な点、ご了承ください。)

 

【ハンセン病関係者の悲しみが込められた島、小鹿(ソロク)島】

ヨス、チェジュ島。その水路の中心地ノクドン港から手を伸ばせば届きそうなところにソロク島がある。

 

(0:30ピンクの女性)「昔ソロク島で運動会があった時などに行きました。患者の子供達もいて、運動会などもやっていました。」

 

船でわずか5分の距離だが、かつては人々との距離がはかり知れなかった島。2009年にノクドン港との間に連絡橋がかけられ、2010年にはその先のコグム島まで橋が伸びて、人々との距離が縮まった。

 

陸路が繋がって訪れる人々が増え、少しずつソロク島の扉が開き始めた。

 

(1:40 病院係長)「島全体がハンセン病患者の生活治療空間ですが、橋ができてからは訪問客のために、観光地ではないが、公園までは開放しています。」

 

(2:30病院長)「日本総督府がハンセン病患者の隔離を決めた後、いくつかの候補地を探したようです。条件が3つありました。陸地からそれほど離れておらず、水が豊富で、冬でも温暖であることです。ソロク島は条件に合ったので選んだようです。」

 

島全体が国立ソロク島病院の病棟概念であるソロク島。現在はハンセン病回復者だけで患者はいない。

 

(3:20院長)「現在の入院者は580名。ハンセン病患者ではありません。過去に感染した回復者です。現在は高齢の慢性疾患患者や、過去に適切な治療が受けられず合併症のある方などです。辛い思いをしてきた方々を国が福祉の観点でお世話しています。ハンセン病患者ではありません。」

 

ただ平和に見えるが…

 

(4:18) ここには、経験したことも想像することもできない苦痛と悲しみの生活が染み込んでいる。

 

(4:30コフン郡文化解説者)「患者同士の子供たちが生まれました。生まれた子供たちは感染していませんから、親元で暮らすことができず、別の場所に送られて育てられました。ここが1ヵ月に1度だけ対面できる場所でした。

 

会わせはするのですが、どうしたかと言うと、ご覧のように後ろから海風が吹いてきます。子供たちは海に背を向けて、そして道を隔てた反対側に母親が風を受けて向き合って立ちます。そして、元気か?寒くないか?お腹が空いていないか?と言いながら、嘆きと涙だけが溢れた場所なので『愁嘆場』という名前のある場所です。」

 

1列に並び、切なく顔を見るだけだった嘆きの場。ソロク島では子供を育てることができなかった過去。母親は懐から子供を去らせなければならない運命を受け入れるしかなかった。

 

病院横にはそんな彼らを慰めるかのように、作家30名の才能寄付によりソロク島の歴史と希望を込めた空間がある。

 

血を流す子鹿は過去を、生涯恨を胸に生きる住民たちの顔は現在、そしてのびのびと跳ねる子鹿は未来を描き出す壁画。53年前ハンセン病患者が書いた詩を見ることもできる。

 

麦笛を吹けば

春の丘

故郷が恋しい

ピリリリ

 

麦笛を吹けば

花の山

幼い頃が懐かしい

ピリリリ

 

17歳でハンセン病にかかったハン・ハウンさんの詩だ。彼の切ない想いが静かに流れる中央公園。ここは1936年から3年間、6万人を超えるハンセン病患者の血と汗で作られた。

 

ハンセン病の撲滅というソロク島の希望を象徴するミカエル像から、ハンセン病退治と啓蒙の先頭となったマリアンヌとマーガレット修道女の共助まで、痛みに苦しんだソロク島の風景は、今では年間60万人が訪れる場所になった。

 

(7:30) 中央公園を通り過ぎ、ソロク島最大の痛みが宿る場所。登録文化財第66号として指定された「ソロク島検屍室」だ。

 

本人や遺族の意思とは関係なく、無条件に解剖される患者たちの死体。そのためソロク島の人々は3回死ぬと言う。

 

(訳注:発病した時が1回目。解剖が2回目。そして火葬されるのが3回目)

 

今でも検視室に残る手術台と検屍台が想像を超えるハンセン病患者たちの苦痛と悲しみを伝えているかのようだ。

 

さらに詳しく彼らの生活に会える場所がある。検屍室の背後にある「ソロク島資料館」だ。当時の手術道具から生活用品、衣服などが展示されている。

 

日帝強制期に彼らの労働力が搾取された苦しみの時代から、少しずつ心の扉を開き始めた現代まで。ここには1世紀の間黙々と耐えてきたハンセン病者のやるせない人生も共にある。

 

(9:30)「昔はここの住所を書くのもはばかられました。なぜか。故郷に手紙を出すのに、ソロク島と書いてあったら家族にどんな迷惑がかかるか。それが心配で、ソロク島とは書きませんでした。でもここの郵便局で出せば印を押されてそれで分かってしまうから、島外から出すことも多かったです。今は違います。堂々とそう書きます。」

 

日帝時代に建設された日本式神社の中で、唯一残っている神社。100年間島を埋める痛みの痕跡だけだった。

 

家族さえ贅沢だった孤独な島、ソロク島。しかし、服を着替えるかのように変化が始まった。7つの町からなる580名のハンセン病回復者の中には家庭を持つ人もいる。

 

(中略)

 

(12:55) もちろん観光客に解放されている空間は制限されている。まだ公開できないこともあるが、苦しみと悲しみの島が、世界と疎通し始めたのは明白だ。

 

(13:15)「法に裁かれた人たちは一般の刑務所に行ったので、4代目の院長が感染を恐れて1935年ソロク島に特殊刑務所を建てたのです。その年の11月に全国のハンセン病患者たちを全員ここに移動させました。その時の名称が広州刑務所順天支所ソロク島分所でした。」

 

自分で選択した事はないが、ある日突然身に降りかかった病気のために、世の中から隔離されなければならなかった人々。

 

そして、その悲しみと絶望の痕跡がまだ消え去っていない島、ソロク島。

 

しかし、今その痛みの痕跡は1つの風景となり人を恋しがった島に人々を引き寄せている。

 

 

 

【ソロク島の看護師マリアンヌとマーガレット、愛の40数年】

「手が固まるじゃないですか。固くなるからワックスバスをして、指の運度をするんです。それ以上固まらないように。」

 

1962年。オーストリアから2人の看護師がソロク島へやってきた。20代のマリアンヌとマーガレットだ。彼女たちは打ち捨てられた患者たちを治療し包み込んだ。人は彼女たちを「青い目の天使」と呼んだ。

 

「ここには希望がありませんでした。それを考えました。患者たちには希望が必要です。それぞれが希望や信頼の中で生きなければ。」

 

形が鹿に似ているのでソロク島(子鹿島)と名付けられた美しい島。

 

しかしこの小さな島には世の人々には想像もできない深い傷を抱えている。

 

強制収容されたハンセン病患者や回復者たちは不自由な身体で重労働に苦しみ、遺伝病だからと断種手術まで行われた。

 

60年代当時は、伝染病に対する恐怖が非常に大きかったので、回復者たちは自分の子供たちと一緒に暮らすことができなかった。

 

最も悲劇的な場所は、ここ「愁嘆場」だ。保育所に子供たちを預けた後、こうして離れた場所から見るだけ。風の吹く日には病菌が飛ぶのを恐れ、子供たちは、常に風の吹いてくる側を背にして立った。

 

マリアンヌは喜んで子供たちの母代わりを務めた。食べさせ服を着替えさせ、眠るまで愛を注いだ。

 

(2:20)「当時は本当に認めてもらえませんでした。人間以下。看護婦も医者も手袋をはめていたのに。あの人たちは傷にさえ素手で触るし、鼻で臭いを嗅ぐんです。」

 

「看護は患者の前にいてこそ看護だ。チャートを整理したり、処方したりに時間をかけるのは看護ではないと。手足を使うのが看護だ。頭でするのは看護じゃないと(言っていました)。」

 

月給をもらわないボランティアとして43年間ソロク島で暮らしたマリアンヌとマーガレット。自分たちが特別にした事は無いと、誰にも知られず手紙1枚を残して島を去った。

 

(3:35)「愛する友と恩人たちへ。この手紙を書くことは、私たちにとってとても難しいことでした。私たちは至らない外国人として、大きな愛と尊敬を受けました。ありがとうございました。感謝と共に、マーガレットとマリアンヌより。」

 

 

[インスブルック2016年]

Q:ソロク島にまた行きたいですか?よく考えますか?

「生涯のほとんどを過ごしたのだから、もちろん考えます。あそこの人々は家族です。患者たち。」

 

Q:誰に1番会いたいですか?

「みんな。みんなに会いたい。みんな大好き。」

 

最近のことは覚えていられないが、ソロク島でのことははっきりと思い出していた。

 

(訳注:マリアンヌは認知症を患っている。マーガレットは彼女に会うため足しげく通っている。)

 

「過ぎてしまった」

 

「何が?」

 

「ソロク島時代は過ぎてしまった。幸せに暮らしたわ。とても良かった。」

 

マリアンヌとマーガレットは最も孤独で最も苦しむ人々と一緒にいたいと願った。彼らを愛し、彼らから愛され、それが彼らにとって最高の幸福だった。