想像の力を信じさせてくれた作品
2022年韓国初演の〈タッチング・ザ・ボイド〉は1985年、未登頂のペルーアンデス山脈シウラグランデの西側氷壁をアルパインスタイルで登頂した英国人登山家ジョー・シンプソン(Joe Simpson)とサイモン・イーツ(Simon Yates)の生存実話を基にした作品で、吹雪が吹きつけている雪山に閉じ込められた恐怖を乗り越えた生の闘志を盛り込んでいく。
〈タッチング・ザ・ボイド〉は山を舞台に移すため、没入型音響技術(具現しようとする空間で発生する音刺激を、精巧化されたソフトウェアとハードウェアを通じ聴者がいる空間に実際と近い形で具現することで、聴者がまるでその空間にいるように感じさせる技術)を使用した。巨大な自然が作り出す孤独の言語「空虚(void)」が劇場を包み、観客はジョーやサイモンと一緒にシウラグランデを登る感覚を味わうことができる。
登山家ジョーを演技するイ・フィジョンはすでに多くの山々を渉猟した登山愛好家だ。彼は「峨嵯山、清渓山、北漢山から徳裕山に雪山を見にいき、済州島に行くと無条件に漢拏山に登る。私は山が好きというより自然と森が好きで山に登る。事実登山で得るのは筋肉痛だ。(笑) 雪山に登ったことがないなら、ぜひ一度行ったらよいと思う。森閑として寂寞とし、雪を踏む音しか聞こえない」と、イ・フィジョンとジョーが一体となったような言葉を切り出した。
Q. すでにたくさん登山経験があるが、プロの登山家を演技するため、外見や内面的に準備した点はあるのか。
私は去年、腰ディスク3期の診断を受けたが、この作品が腰に良くない姿勢をすることが多くて個人的には大変な部分がある。ジョーが座って立ち上がる時には、ジョーとしてでなく、イ・フィジョンとして痛がる声が自然に漏れたこともあった。今はもう少し楽なように姿勢を矯正したが、公演を最後までやり遂げるため一生懸命に運動した。体の調子が悪い方々も登山をするが、プロの登山家のイメージは頑丈に見えるから、実戦筋肉を育てようとした。装備が手に馴染むように扱う練習は基本であり、気を使わなくても良い髪型に見せるため前髪をパーマして変身を与えた。
Q. 作品の準備中に、パク・テウォン登山家が練習室に訪ねて来て俳優たちと多くの対話を交わしたと聞いた。その時どんな話を交わしたか。
隊長の視線で見たら私たちはあまりにも一般人のように見えるのではないだろうか。逆に私たちが隊長にお会いした時は畏敬の念を抱く存在のように見えた。私たちがセラのように「どうして登るのか? 怖くないのか?」と尋ねたら、「死にたくて行くのではないのに、どうして怖いのか」と答えた。雪山に登るには多くの事前知識と技術が必要だが、技術を知るほど死と恐怖とは遠のくようだ。隊長が〈タッチング・ザ・ボイド〉の台本を見たら話にならなかったそうだ。 (笑) 技術者の目にはロープを切らずに生きる方法があったということだ。ところが、ジョーとシンプソンは若くてまだ経験が少ない上に、寒さで判断力が落ちたのだと思う。それから、山の頂上に立ったらどんな気分かという質問に「下山することしか考えない」という言葉を聞いて、笑いが出た。私たちが考える登山とは異なっていたが、登山の準備過程に意味を置くとおっしゃった。登山を公演に例えれば、私も作品をする時は、実際に何が血肉になっているのか分からずに一日を送るが、終わって振り返った時「この公演がこんな経験をくれたのか」と思うのに似ているかもしれない。
Q. 自然が好きで登山することもあるだろうが、山に登る理由は何か。
山は一人で登る時と、誰かと一緒に行った時の感じが違う。一人で登山すると、自分だけに集中する瞬間が生じる。漢拏山は一定の海抜以上になると木々が死んでいるが、疲れているせいかそれを見ながらも何の考えも浮かばない。そして低い山に夕方頃に登るのと地方にある山に登ると、都市と人の声が聞こえず自然の音しか聞こえない。騒音が一つもないというのが怖いときもあるが言葉で説明できない良いものがある。
Q. 〈タッチングザ・ボイド〉は高山にいるのを聴覚的に伝えるが、視覚的に心配した部分もあるのか。
公演では、雪もなく山も無いのでとても心配した。これが果たして想像力で何とかなる問題なのか疑問だった。原作の公演では物理的に高さ感を与えて閉じ込められたのも見せている。今回の公演も物理的に高くはあるが、客席から見れば丘程度の高さではないか。多くの俳優が初日までとても不安で、「これでいいのか?」と疑っていた。公演最初の週には「何かもっと良い方法があるんじゃないか」という気持ちだったが、初日にミュージカル俳優チャン・ジェウン兄が観に来て絶賛し、生きていく力を得たと言った。それで私たちが心配していたより多くのことが伝達できていると感じた。
私は顔にたくさん汗をかくほうで、〈タッチング・ザ・ボイド〉は汗をたくさん流していい公演のようだ。岩壁を滑り落ちたり、怪我した脚を片足で支えて進まないといけないのだが、役者が汗を流さずにサラサラしていたら、観客の立場では「辛くないみたいだ」と感じそうだ。ソノ兄は体に汗が多くてソンミン兄はあまり汗をかかない方なので、私が汗を流すのはこの公演では祝福だと兄たちに言われた。 また、汗をたくさん流すので、公演が終わるとデトックスになって前より誠実になる感じもする。 (笑)
Q. 〈タッチング・ザ・ボイド〉でジョーとサイモンの関係を「登山パートナー」と呼ぶ。サイモン役のオ・チョンテクさんは友情ではないが、確実に互いに信頼し合う仲だと言っていた。イ・フィジョンさんの考えはどうか。
パク・テウォン隊長も、お互いの信頼が厚くなければ一緒には行けないとおっしゃっていた。台本にも登山パートナーだと明示されているが、これがどのような意味かわかる気がする。登山実力の優れた二人がお互いの実力を認めて登るんじゃないだろうか。だがイ・フィジョンピショル(イ・フィジョン・オフィシャル)として言えば、二人は互いを技術者としてだけ信頼する関係ではないと思う。それだったら、生死を分ける状況で苦悩せずロープを切らなければならない。
自分が好きなことをするにためには良い機運を持った人と一緒に行くべきだと思う。その人に能力があり、心強いのも良いが、サイモンを単に技術者として見るなら山を一緒に楽しむことはできなかったろう。信頼が技術だけによるのではなかったのでサイモンはジョーのロープを切る時に1時間半も悩んだのだろう。
Q. サイモンとしても、生きるためにジョーと繋がったロープを切ったが、奇跡的にジョーは死ななかった。ロープを切る人も辛かったろうが、自分のロープが切られたのを知った時、寂しさ、虚しさ、喪失感などがあるはずだが。
そう言われると絶望感に陥りそうだが、シウラグランデの関連資料を探してみたら、山に対する恨みもありそうだ。長い間そこにじっと存在するあの巨大な山を恨むようだ。一方で自分自身も振り返りながら「なぜ自分はこんな事をしたのか」とも思うだろう。だがジョーは死を乗り越えようと努力し、山が生存を許したにしろ、奇跡が起きたにしろ、ジョーの努力が通じて、ついに生き残れたのではないかと思う。
私も大学生の時、ジョーのように足首を骨折したことがある。氷上でジャンプをして足首の骨が折れる音が聞こえた。もちろんジョーはこれよりずっとひどく折れたのだが。その時、ジョーと同じように片足で飛び跳ねながら進んだが、このまま転んだら二重事故が起きそうで、江南駅のバス停で一緒にスキー場に行くと約束した友達を待っていた。その友達がまさに俳優のイ·サンイだ。(笑) サンイが私を支えて病院に連れて行ってくれた。
Q. ジョーが生死を争う苦痛の中にいる時、セラがジョーの頭の中に現れ、弟を生の入口に導いてくれる。俳優のイ·ジンヒ、ソン·ジユンがセラ役だが、2人の俳優の姉はどんな感じか。
ジンヒのセラは実姉に似ている。とても暖かく生きるべき理由を心から表現してくれる。今生きればもっと良いことが待っていて、私たちは一緒に楽しんで幸せになれると言ってくれるなら、ジユンセラは「生きなければならないのよ、バカね。あなたはこんな子じゃないでしょ! これも耐えられないの?」と言って、生きていく理由を悟らせる。私の実姉は生きる理由をプッシュしないが、いるだけで私に力を与える存在だ。
Q. 公演後半にジョーがサラに書いた遺言状に悲しいだけの雰囲気を少し転換してくれるウィットが溶け込んでいた。もし俳優イ·フィジョンが遺言状を書くなら、どんな言葉を残したいか。
私はジョーのようにウィットは入れられないと思う。私が身の回りで死を経験したのは飼っていたペット2匹だった。当時はカン·ヒョンウク動物訓練士が活発に活動していた時でもなく、子犬についてたいして知らなかった。犬の遺骨入れがあるのだが、そこへ行ってしてあげられることが無いから手紙を書いた。ウィットを持って書けなかった。ユーチューブで海外参戦を控えた兵士たちが遺言状をボイスで録音したのを見たが、自分の死を残っている人々にウィットよく笑いで伝えるのがさらに悲しかった。悲しくても笑っていて、それに耐えようとするのがもっと悲しかった。むしろ笑いに昇華させれば、残っている人たちがもっと悲しくなるようだ。
![汗うさぎ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char4/671.png)