二つの都市 モスクワとペテルブルクの葛藤 Ep.2 〜 アンナ | 韓国ミュージカルを 訳しまくるブログ

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韓国ミュージカル
自分の予習復習用につき、かなりの偏りあり
(注意: 目標はネタバレ100%)
メモ付き写真アルバムとしても使用中

(Ep.1は簡単なストーリーとキャスト紹介なので割愛します。リンクはこちら左下矢印)


知るほど見えてくるアンナ・カレーニナ Ep.2
アンナ・カレーニナのように遠い異国で、異なる時代に制作された文学作品や芸術作品を楽しむ方法は二つあると思います。

一つは今の私たちが気楽に観ながら、今の私たちにどんな意味があるか、見たままを感じる方法です。それもまた非常に優れた方法だと思います。

二つ目の方法は、当時の人々の生活状況や考え方などを知ってから観る方法です。当時の人々がなぜそのような文章を書いたか、キャラクター設定の理由、キャラクター同士の会話に隠された意味までも理解できるので、より多くのことを多様に楽しむことができると思います。

二つ目の方法は分かりやすく説明してくれる人がいればさらに採用しやすいですね。なので私がここにやって来ました。

このアンナ・カレーニナと言う作品は帝政ロシア時代の作品です。19世紀の帝政ロシアには自らのアイデンティティーに関して大きな混乱がありました。その混乱の最も重要な部分は何かと言うと、果たして自分がロシア人なのか、アジア人なのか、ヨーロッパ人なのかと言う点です。

現在の私たちがロシアを考えれば当然ヨーロッパだろうと考える方が多いでしょう。しかしロシアは歴史のほとんどの部分を西洋よりも東方の影響を受けて文化を形成してきた国なので、実は西洋文化を急激に取り入れた時、西洋文化がまるで他人の物のようにしっくり合わないという問題がありました。

そういった問題のために、トルストイやプーシキン、ドストエフスキーなどの作品が韓国で人気があるのだと思います。

それでは西洋化される以前のロシアはどんな姿だったのか少し見てみましょう。

この地図ではロシアはここにあります。当初はロシアのヴォルガ川を挟んで上下に発展しました。

そしてその当時の西ヨーロッパはとても貧しかったので事実ロシアが特に学びたいと思う文化ではありませんでした。

それに比べて下側に位置するアバシドカリフというアラブ民族が治めていた地域と、横にあるローマの正統的後継者であるビザンチン帝国の場合は、非常に長く続いた文化を持ち、多くの富を有する先進国でした。ですからロシアが外国の文物を受け入れて「さあ強国になろう」と決心した時、最初彼らは西方を見ずにビザンチン帝国の文化の方を向いたのです。


ロシアの文化で非常に重要な事件は何だったでしょうか。当時ロシアの前身と言える、わが国で言えば高麗や朝鮮のように、まだロシアと言う名前を使う前のキエフ公国と言う国がありました。


そのキエフ公国の大公爵がビザンチン帝国の王女と結婚することになりました。この絵はもちろん21世紀に描かれた絵ですが、アンナ・ポルフィロゲネタというビザンチン帝国の王女と結婚します。


この王女が1人で来るのではなく、キエフ公国が必要としていた司祭たちや教育のある人々を一緒に引き連れてきました。それからキエフ公国にビザンチン様式の建造物がたくさん作られたのです。その中の1つがキエフにあったこの画像のハギアソフィア聖堂です。


おそらくトルコ旅行にいらした方はハギアソフィアの名をたくさん聞かれたことでしょう。イスタンブールの代表建築である聖ソフィア聖堂と同じ名前です。ビザンチン帝国に付き従いたいという欲望を内包していたのでしょう。


このように何百年かが過ぎた後、この地域にジンギスカンの軍隊がやってきます。そして多くのロシア系貴族たちが実質的にはジンギスカンに貢物を捧げる属国になります。このようにして中国や東方の文化が再度、大挙して押し寄せます。


ロシアの歴史で最も重要な人物の1人がママイです。ママイはジンギスカンの帝国を壊していくつかの国に分割させましたが、その1つがカンです。カンとは、ジンギスカンやフビライカンの"カン"ですね。遊牧民の指導者と言う意味です。


ほとんど大部分のロシア貴族はママイに対し属国のようにお金を払っていました。しかしその中のモスクワ公爵がロシア民族の貴族たちを集めてママイを撃退します。その軍事組織がそのまま帝政ロシアに至るまで、ロシアの貴族社会として残っていきます。


しかしロシアは長期にわたってモンゴルの支配を受け、その次にビザンチン文化を受け入れ、さらにペルシャ文化との交流が盛んだったので、16世紀までのロシアの服装を見れば、イランやトルコ、モンゴルの服装にはるかに近く、私たちが当たり前に考えるヨーロッパの服装ではありません。


この根の上に急激な西欧化をしたために、ロシア人は19世紀になっても、アジア的アイデンティティと西欧的アイデンティティのどちらが重要なのか、おおいに悩みながら生きていました。


アンナ・カレーニナにはその悩みが非常に多く反映されています。


この頃までロシアは厳然たるアジア的国家だったのです。しかしロシアをアジアから切り離しヨーロッパの一部にする役割を果たした最も重要な人物は、このピョートル大帝です。


ピョートル大帝はその当時に世界がどのように動いているのかとても敏感に把握した人物です。富の中心が技術発展と産業革命を起こすことになる英国やフランス、ドイツの方に動いていることを先に把握していました。


ですからロシアがアジア国家の1つとしてよりも、ヨーロッパ国家として分類されることがロシアの運命に関わると把握し、ロシアの急激な西洋化を推し進めました。


例を挙げると、多くの公務員をドイツに留学させ新しい技術や服装を学ばせました。ご覧のように自分の肖像画も、衣装や記章 、立つ姿勢までもドイツ皇帝と良く似ています。


当時ロシア貴族の象徴は、東方国家の大部分がそうであったように長いヒゲでした。しかしピョートル大帝は例外なくヒゲを剃れと言いました。西洋人はヒゲを剃っていたからです。


最初貴族たちは反発します。ヒゲを剃ろうとどうしようと個人の勝手ではないか。強制してもうまく行かないのでピョートル大帝はもっと怖い妙計を打ち出しました。ヒゲの長さに従って税をかけたのです。それで貴族たちはヒゲを剃るようになりました。


ピョートル大帝はヨーロッパのニュースをよく知っていたので、今後富の中心は農業ではなく産業になることを理解しました。


ですから、裕福な農地に囲まれてはいるが、海への道がとても遠かったモスクワに首都があると、今後ロシアがひっくり返ると考え、海に面しているペテルブルグへ遷都しました。


そこにこの写真のようなドイツ式要塞も建てました。その他多くのヨーロッパ式施設や港湾設備、軍事施設、宮廷もです。


その時からロシアは洗練され西洋化されたペテルブルグと、保守的でアジア的なモスクワと言う、2つの大都市を持つようになったのです。


この2つの都市の葛藤が、この2つの都市が持っているイメージが、このアンナ・カレーニナというミュージカルにそのまま反映されているんですね。


ですから1番最初にアンナ・カレーニナがペテルブルグからモスクワにやってくるそのシーン自体が、西洋化された場所から、ロシアの伝統がまだ個人を縛り付けている場所に来るという深い意味を持っています。


ピョートル大帝の死後、ロシアの貴族たちはあまりにも早く西洋化が進んだので、自分たちの元の生き方が変化するのを恐れて首都を再びモスクワに動かしました。


そのようにペテルブルクとモスクワはロシアの2つの姿を象徴しているといえます。


世代が進みエカテリーナ大帝が即位すると、急速に西欧化の波が入ってきます。エカテリーナ大帝はピョートル大帝と異なり、ドイツではなくさらに西側にあるフランスをロールモデルにしました。


その頃のフランスはベルサイユ宮殿を中心に非常に豪華な宮廷文化を花咲かせていたのです。エカテリーナ大帝はロシアの皇室をベルサイユとフランス王室に匹敵する、最も洗練された場所に発展させるため大変努力しました。


エカテリーナ大帝時代に造られた建築や彫刻は、多くの場合フランスから連れてきた知識人に直接建てさせました。


西洋化の象徴であるピョートル大帝の銅像ですが、この銅像はフランスの彫刻家ファルコネという人の作品です。ところでこの銅像を制作する過程にロシアの姿を見ることができます。


この銅像を支える下の大きな岩は非常に重いです。そのような岩を動かそうとすれば、ヨーロッパは産業革命と科学が発展中であるため、何か道具を利用して運んでくると思います。


ロシアはヨーロッパの外見を学んだだけで基盤になるインフラがまだ無いので、何万人もの奴婢が動員され、農作業を行えず、うんうん唸りながらあれを引きずり、鞭で打たれて呻いていたそうです。


ですからあの彫刻は見方によっては、外側だけ西洋化され内側は伝統の悪習を捨てられない、ロシアの両面性を見せてくれる象徴のように残っています。


その次にご覧になるこの画像は、現在ペテルブルグを象徴する聖イサク大聖堂です。これもフランスの建築家の手によるものです。


フランスにあるナポレオンの墓、アンヴァリッドと並べて比較すると、ほぼ同じ姿の建築物だということがわかります。


ロシア人がペテルブルグとモスクワにどんな異なるイメージを持つのか考える時、この二つの建物を比較してみれば良いでしょう。


こちらの建物はモスクワの象徴、聖ワシリイ聖堂で、こちらはペテルブルグの聖イサク聖堂です。


昔の東方のモチーフで、かなりペルシャやトルコの建築に似た聖ワシリイ聖堂がモスクワの中心部にそびえています。


聖イサク聖堂はペテルブルグで最も重要な建物であることを考えると、ペテルブルグとモスクワの人々がどのような関係を持っていたのか、この2つの都市がアンナ・カレーニナの中で象徴している事は何なのかを、今皆さんは理解なさったことでしょう。