安倍元総理の葬儀について思ったこと | じきの食歴

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「これぐらいだったら反対してもいいんじゃないか」

最初は、そういった軽い思いから国葬反対のデモに参加したのかもしれない。

それが、集団心理というか、まわりに感化されエスカレートし、葬儀当日まであのような浅ましいデモ行為をしてしまった。

参加していた人が全員というわけではないが、そういう人も多かったのではないだろうか。

参加している人達の映像を見ると、狂信的な目つき、根拠の無い同じ内容の恫喝、普段は大人しそうな人が取る、大胆な行動。

それは、昨今騒がれているカルト宗教問題や洗脳問題にも通じるものを感じてしまい、うすら寒さすら感じてしまった。

国葬にすべきかは、色々な立場の人や考えの人が居て、全員が納得できるような議論をしつくすには、長い時間を要するだろうし、各国の要人を招くためにも「国葬」という体裁を取らなければならなかっただろうということは、容易に想像できるだろう。

おそらく、現在国葬に反対している人の大多数は、国葬に関する費用が税金から出されることに対する嫌悪感が元になっているのではないかと思う。

安倍さんを偲ぶという思いについては、反対デモに参加している人達の人数と、延々と4キロメートルにもわたり最終的には約2万3千人が参加したという葬儀への一般参加者の列の長さを見ると、どちらが主流の見解であるのか一目瞭然だろう。

それを、218の国や地域からの参加者も集まる葬儀のその日にまで反対活動を行うというのは、単なる自己顕示欲の発散か、何か深い意味があるのではないかと邪推してしまう。

「逮捕者は出なかった」ということだが、そこには参加した人達に政治的な強い信念が無かったから、そして心の中のどこかで死者に対する後ろめたさがあったからこそ、そこまでの行動に至らなかったのではないだろうか。

安倍さんが2006年に戦後最も若い総理大臣として就任した時の挨拶にこのようなものがある。

『日本を、世界の人々があこがれと尊敬を抱き

子供たちの世代が自信と誇りを持てる

「美しい国、日本」とするため

私は先頭に立って全身全霊を傾けて

挑戦していく覚悟であります』

と。

「あこがられる日本」「尊敬される日本」、そして「子供たちが自信と誇りを持てる日本」にするためには、どうすれば良いのだろうか。

日本人としての尊厳というものについて、今一度考えてみたい。

そう考えさせられる葬儀であった。