30年来の行きつけだった喫茶店「ラ•メール」が閉店。
S園長との会話の中で、初めてその事実を知る。
しかも店を閉めただけではなく、象徴的な本格ログハウスの建物ごと撤去されてしまっているそうだ。
オレ自身、発病以降足が遠のいていたので、どういう経緯でそうなったのか知る由もないが、最後に訪問した3年前の夏、マスターから、
「体調を崩して入院していた」
と聞いていたので、その後おそらく病状が悪化して休業。そのまま再起を断念したものと推察される。
というか、このログハウスは店舗兼マスターの住居でもあったので、自宅を処分したということは、もしかしたらマスターはすでにこの世からおさらばしているのかも知れない。
仕事の帰り道、少し遠回りをしてラ•メールへ行ってみると、独身時代から通った馴染みの場所は無機質な更地へと変貌しており、アスファルトとの境目に店舗へ続く階段の面影を僅かに残すのみとなっていた。
無いとは分かっていたものの、現実を目の当たりににすると、寂しさがどっと押し寄せてくるような感情に包まれて涙が出そうになった。
オレは駐車場に停めた車を降りると、ポケットからスマホを取り出し、
「お元気ですか? 積もる話もございます。是非またお会いしたいです。」
と打ち込んでマスターへメールを送信。
ラ•メールの跡地に向かって、
「長い間ありがとうございました」
と一礼して、再び車に乗り込んだ。
自宅でなく職場でもなく、この地で送ってこそオレの後悔が言霊となってマスターへ届くような気がしたのだ。
そう思ったとき、不意にスマホの画面にポタリと雫がこぼれ落ちた。
オレはいつも大事なところで失敗をする。
マスターの調子が良くないことは分かっていたのに。
年中無休のラ•メールが休業していることは知っていたのに。
連絡を取る時間などいくらでもあったのに。
学生時代も、そのうちそのうちと思っている間に好きだった娘に彼氏ができてしまっていた。
いや、それは今披露する話ではないか。
誤解を恐れずに言えばオレが店舗を買い取り、保育士を辞めて後を引き継ぎたいと思うくらいに愛着のあるお店だった。
常連客だったオレがカウンターに入り、歳とった元マスターが客席に座るなんてなかなか乙な話じゃあないか。
オレはもはや実現不可能となったあり得ない空想をして、小さく「ふっ」と笑った。
その時、握り締めていたスマホが唐突に振動。画面を見て、オレは自分の目を疑った。
そこに表示されていたのは、天国にいるはずのマスターの名前だったのだ。
恐る恐る受話器を取ると、
「おう、Dちゃん。久しぶり」
と、まごうことなき本人の声。
オレは、
「あ、生きてたんすか。店が無くなってたからオレはてっきり...」
と、嬉しさのあまりうわずりそうな声を抑えて答えた。
「おいおい勝手に殺すなよ。またどこかでゆっくり互いの近況報告でもしようや」
とマスター。
「いや、いいすわ。たった今涙の別れを終えたばかりなんで」
とオレ。
マスターにラ•メール閉店の真相を問うと、県から道路拡張に伴う立ち退き要請があり、店舗の移転を視野に準備を進めていたものの、その最中に病気が出てしまったため、再開は諦めてそのまま店を畳むことにしたのだそうだ。
今は新たに購入した家で、1人のんびりと暮らしているとのこと。
モノは無くなれど、オレたちが共有した時間にはまだ続きが残されていたことが何よりも嬉しく、改めて生きていることの尊さを実感する。
もう先延ばしすることなく、生きているうちにとっとと会いに行こう。
以前衝動買いした籐製のバスケットにサイフォン一式とコーヒーカップを詰め込んで、ラ•メールごっこをしに行こう。
