大人の郷土玩具(鹿児島篇)その2 | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 

 さて、この「なんこだま」が何ゆへ「大人の玩具」かと申しますと、この遊戯は主に鹿児島県大隅町では酒宴の後に催されるからです。

 一つの宴にて飲食したあと、都会ならカラオケやスナックに繰り出すのが通常の二次会でございますが、さういつた施設が僅少な鹿児島の山村では、男衆がそれぞれ数人のグループに分かれて、この「なんこ」遊戯に興ずるのでございます。

 

 極めて私個人の話になりますが、30数年前、鹿児島県大隅に在る今の妻の実家へ、父母と三人で「結納」に参上した日のことです。当方と相手方の父母兄弟との面談、結納式、それが終はると昼間ながら宴が催されました。夕刻、父母はひと足先に帰路に就き、午後6時頃になりますと、夕食を兼ねてまた宴会。そこへ、仕事を終へた相手方の親類が三々五々現はれ、私はこれまた一人ひとりと盃を交はすこととなりました。

 

 古来我が国では、薩摩隼人に土佐いごっそう、即ち鹿児島と高知の男衆は、酒豪は酒豪でも桁外れといふ定評がございます。それはどうやら民俗学的にも裏付けがあるらしく、他府県とは DNA が異なるのださうでございます。

 私は期せずして、その薩摩の嫁を貰ふことになつたのでございました。

 

 それがしも大学應援團にて鍛えた身、加へて年齢は30歳の若さ、酒の飲み方には少々自負がございましたが、昼間から続く酒食のおもてなしにより相当出来上がつてをりました。

 そして夜8時頃になりました。

 妻の母方の叔父さん(義母の弟)が、カラカラ(写真)に芋焼酎の湯割りを拵えて、私の前にどつかと坐ります。そして、おもむろに「なんこだま」を持ち出したのでございます。

 

 

 叔父と「なんこ」の差しの勝負となつた訳でございます。相手はさすがに鹿児島大隅に産まれ育つて60年を越へる人士にございます。まるで私の手がガラスで出来てゐるのではあるまいかと呆れるほど、手の内を完全に読み取られてをりました。10回勝負をすれば、そのうち1回だけが私の勝ち。2回ほどが引き分けで、残りの7回は完敗でございました。

 1回負けるたびごとに、盃に焼酎の湯割りを注がれ、それを飲み干さねばなりません。と申すより、長丁場を予測するゆへか、上の写真とは異なり、盃と言ふよりも小さなお猪口(ちょこ)でした。わずかなひと口の量しか入らぬゆへ、スイッと飲み干してしまひます。

 横で片付けをしながら、私どもの対戦を眺めてゐた後の妻の母親は「Mちゃん、もういいかげんにせんね」と弟をたしなめるのですが、すつかりハマり込んだ私は、「まだまだ!」と自ら勝負を挑んでゐたさうでございます。無論、私はそのあたりの記憶がございません。

 案の定、夜9時頃には、私はたわいもなく畳の上に大の字に倒れ、初めて訪ねた家で翌朝まで爆睡致すといふ失態を演じてしまつたのです。

 

 後で聴いた話によれば、大隅町の人々は、斯うして「なんこ」を用ひて初対面の人間の性格や肚の内を読むのださうです。相手が酔ひつぶれるのは、はなから折り込み済みなのです。さながら、私はまな板に乗せられた魚だつたのです。

 その魚が果たして鯛なのか、メダカなのか。性格は敏捷かおっとりか。努力家なのか、いい加減なのか。正直者か、見栄つぱりなのか…  そして究極的には、このトリトンは自分の姪の夫に相応しい男かどうか、全て見られてゐたのでございます。無論その判断は、逐一報告されてをつたことでせう。

 

 結局、私どもの縁談は破談になることなく、半年後には成就いたしました。そして今日まで30数年間、これといつた別れ話もなく過ぎてをります。現時点では、叔父の判断の正しさが証明されてゐるのでございます。

 めでたし、めでたし。

 

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