孤高の3児童の想ひ出〈3〉20年後に巡り会つた旧友 | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 

 前回は、骨折をも恐れず学問上の実験のため2階から飛び降りたK君のお話を致しました。

 科学を始め、文学、医学、政治など人間の文明はすべからく、稀有な天才の出現によつて大きな一歩を踏み出すことは確かなやうです。歴史の歯車を動かすやうな天才が、私ども名もなき草莽(そうもう)と同じやうな発想や社会生活、言動に終始してゐるなどとは、考へる方が可笑しいのやも知れません。

 

 かのニュートンは、庭に生ゑてゐた林檎の木から実が落ちるのを見て「万有引力」を思ひついたさうです。彼が実験や研究に没頭する余り、昼食のゆで卵を作るつもりで腕時計を鍋に入れてしまつたのも有名な逸話です。

 

 私の高校時代に英語の教科書に取り上げられてゐた話を思ひ出します。

 名は忘れましたが有名な科学者(ご存知ならば教へて下さい)が学生の頃、昼休みに教室で勉強の続きをしてゐる隙に、友人らが悪戯で彼の弁当を食べてしまひます。勉強が一段落した彼が自分の弁当箱を開けると空つぽです。そこで彼は「さうか、しまつた、僕はもう昼飯を終へてゐたんだつけ」と苦笑して、また勉強に戻るのです。それを見た友人らが、とても後悔して彼に謝罪した処、彼は莞爾と微笑んで「いいんだよ、お腹の代はりに僕の頭は一杯だ」と答へたといふウヰツトも兼ね備へた魅力的な人物でございました。

 

 20世紀の悪の権化のやうに言はれてをりますアドルフ・ヒトラーでありますが、彼を「天才」と呼んでも否定する人は居ないでせう。彼はオーストリアのブラウナウで生まれ育ち、祖父のやうな年齢で頑固な税官吏の父に反撥。孤独な少年時代を、風に揺れる木の枝と話して過ごしたといふ、友人の話が残つてをります。彼の夢想家ぶりは生涯通してのもので、自分の創り上げる第三帝国は一千年続くと信じてゐたさうです(実際には15年足らず)。

 

 前置きは長くなりましたが、今日は3人目の小学校級友の話です。

 

 隣の教室だつたM君は、余り私と付き合ひはありませんでしたが、常に話題の人物です。母子だけの貧困家庭だつたので、年がら年中同じ服を着用してをりました。乱暴者といふ訳ではなく、と言つて勉強は全然しない…といふより、筆箱ひとつ持つてゐません。短くて先の丸い鉛筆が2本、机の中に置いてあるだけです。

 6年生の2学期くらひでしたか、彼が近所のたこ焼き屋で喰ひ逃げをしたといふ噂が広まります。何でも、母親が得体の知れぬ男性と家で暮らし始めた矢先の出来事でした。以来、級友たちは益々彼に近づかなくなりました。

 

 私は越境通学をしてゐたため、電車で国鉄摂津本山駅で乗降致しをりました。現在も在りますが、北側駅前に「二楽園」なる、今で言ふ処のホームセンターがございました。当時、その一隅に小さなペットショップが在りました。其処にはスピッツの老犬が居りましたが、店の人も放つたらかしで、痩せ細つてをります。

 私が下校する午後4時半頃になりますと、そこにM君が来てゐて、その老犬に寄り添つてゐるのを毎日目撃しました。其処で私と目が合ふと、M君は照れたやうに苦笑ひするのでした。

 

 時が流れること20年余り。私は新神戸に在つた印刷会社に勤めをりましたが、その隣室に○○信用といふ金融会社がテナントとして入居致しをりました。経営者はどう見ても其の筋の人で、毎日大型の外車で通勤し、終日路駐です。たまに駐禁で持つて行かれてしまふのですが、引き取らうともせず、最後には警察から「頼むから引き取りに来てくれ」といふ電話が掛かるのださうです。

 

 或る朝、私は会社の鍵を忘れてドアの前に坐つてをりますと、隣室○○信用の女性秘書の方が「気の毒に、こちらでお待ち下さい」と声を掛けて下さいました。

 恐縮しつつもソファに掛けてをりますと、奥の方で社長さんが電話を掛けてをり、私は見るともなくその顔を見るうち、朧げに記憶の彼方に消ゑてゐた顔を思ひ出しました。眉毛が薄く、と言ふよりほとんど薄くて見ゑない、あの印象深い顔はM君に生き写しなのです。さう言へば、大家さんが「Mさん」と呼んでゐたのを思ひ出しました。

 

 この瞬間、私の瞼に浮かび上がつたのは、小学校近くの緩やかな坂道で、空つぽのドラム缶をゴロゴロと転がして一人見つめてゐる、寂寥感に満ちたM君の後ろ姿でした。

 いつか見た茜色の夕陽の中、溶けるやうに逆光で浮かび上がるM君の立ち姿は、恐ろしいまでに「孤高の少年」でございました。             〈完〉

 

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