母さんが夜なべをして… | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 

母さんが 夜なべをして

手ぶくろ 編んでくれた…

 

 童謡「かあさんの歌」は、皆様ご存じですね。

 窪田聡・作による、日本人なら誰もがほろりとなつてしまふ名曲でございます。

 私はこの歌を聴くたびに、何やらひとつ引つかかるもの、歌詞とは別の穏やかならざるものが頭をよぎるのでございます。

 

 以前、父が尼崎立花駅前で商売を営みをりましたので、毎年1月の西宮戎神社(ゑべつさん)へのお詣りに、兄と二人で連れて行つてもらつたものです。国鉄立花駅から2駅の西宮駅から徒歩15分くらひかかるため、寒い時期でもあり、幼い私は2人について行くのが精一杯でした。

 

 西宮戎は、全国の「ゑべつさん」の総本社でございます。

 古事記を少しでも知る方なら、国産みの神話にイザナギとイザナミの両ミコトが、繰返し柱を回つて出会ふ毎に子を産まれる話をご存じでせう。その始めの方で、体の柔らかい弱い子(蛭子/ひるこ)が産まれ、葦の舟に乗せて流される件(くだり)がございます。

 古事記には書かれてをりませんが、爾後その子はだうなつたのでせう。実はその弱い子は海に流れつき、鍛えられて大きくなり、強くなつて帰つてきたのが「ゑべつさん」だといふ説があるのださうです。さう言へば、漫画家にも蛭子(ゑびす)さんといふ名前の方がおられますね。

 

 西宮戎は神社そのものの敷地もかなり広い上に、その周囲を取り巻く露店がまたまた広大なエリアを占めます。そこへ大群衆が犇いて、今もさうですが、あの周辺で迷子にならうものなら、まず自力では絶対に巡り合ふことは出来ないでせう。加へて掏摸(すり)ひつたくりの事例も多く、毎年制服姿の警察官が大量に動員されてをります。

 迷子でも探すのに難渋するくらひですから、何か物を落とさうものなら二度と探し当てることは不可能です。

 

 私が5、6歳の頃、やはり父兄と3人で戎詣りした日のこと。母の手編みの毛糸の帽子(兄弟お揃ひ)を兄が落としたのです。今のやうに冬の帽子は買ふのでなく、昭和30年代の頃の母親は毛糸で手編みする人が多ふございました。母は嘆き、兄は叱られましたが、そのまま沙汰止みになりました。

 

 その翌年、やはり戎詣りで今度は私が、やはり母の手編みの手袋を片方落としたのでございます。さて3人が帰宅して、私が母にその沙汰を報告すると、母が烈火の如く怒りました。何と、もう一度西宮戎へ行つて探せといふのでございます。私ひとり行かせる訳にはゆかぬと兄が付き添つてくれました。雪の降る日で、再び電車に乗り戎神社へ行くのは大変でした。手袋片方を無くしたとお巡りさんに言ふ訳にも参りませんので、群衆の中2人で地面や柵を見ながら歩き廻りましたが、見つからう筈がございません。

 

 私は半べそをかきながら、子供心に「なぜ去年と違ふのだらう」と思ひました。去年兄が帽子を無くしても、探しに行かされる迄のことはありません。

 「ぼくは母の子と違ふんやろか」とまで考へました。恰度その頃流行つてゐたテレビ番組「胡椒息子」の影響でせうね。

 帰宅して母に「やつぱり無かつた」と、おずおず報告しますと、母が言ふには「去年兄ちやんが帽子を無くしたけど、それは仕方ない。でも手袋は片方だけ残る。これから見るたびに腹が立つから罪が重いんや!」と、再び叱られました。

 幼い私にはこの理由はどうにも納得できませんでした。

 ちなみに何と今でも、兄が無くしたお揃ひの帽子の方は私の手許にございます。これです。

 

 

 この帽子、もう60年近く昔の作品ではございますが、純毛で暖かく、今も私の禿頭を守つてくれてをります。

 今でこそ88歳で優しい母親ではございますが、当時は滋賀の片田舎から嫁に来たこともあり、都会の人びとに負けじと生来の強気な性格が表に出てをつたのでせう。

 手編みの手袋には、「かあさんの歌」に在る、母が子を慈しむ心と共に、強さが込められてゐるのでございます。

 

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