印刷業界を揺るがした出来事〈2〉 | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 

 まづ、これは四半世紀ほど前の出来事だといふことを冒頭に申し上げをきます。

 

 印刷会社T社は関西の大手ゆへ、下請け会社は多々ございます。

 そのうちの何社かは、T社内部に出張所を持つてゐます。T社の営業マンにとつて大変便利なのは、いちいち下請け会社を訪ねてゆかづとも社屋の中で移動する、或ひは子会社の担当者を呼びつけることで時間的に手間を省くことができます。校正による変更や製版上のミスに対しても迅速に対応できるといふ強みがございますが、勢ひ、T社の営業マンから無理を頼まれることもございます。それほど、T社の看板には絶大な威光があつたのです。

 

 まさか現在ではあり得ないとは存じますが、T社の営業マンが会社を通さず勝手に自分で受注してきたものを、下請け会社が内緒で受注して、請求書をT社の方へ回す。数ヶ月後の手形決済のあと、同じ営業マンが水増し分をその下請け会社から受け取る…といふ不正も当時はあつたやうに聞いてをります。

 

 下請け会社のひとつ「W社」は、私が仕事場にしてゐるデザイン事務所の近隣にございました。従業員40人ほどの中堅企業で社長以下3人ほどが営業を務め、それ以外は真面目な若い人ばかりが写植や版下に携はる、至つて健全な製版会社でした。私はデザイン事務所を通して、このW社から発注される写植を納めをりました。つまり下請けの、さらに孫請けといふことになります。

 

 W社には地方出身の若者男女が多く、至つて純朴な人ばかりでした。業界駆け出しの私に対し丁寧に作業内容を教ゑ、また資本不足で文字盤(フォントのことです)がなかなか揃へられない私に、文字盤をよく貸していただきました。社内懇親会に招いて頂いたこともございます。思ひ起こせば未だに足を向けて眠れません。

 

 T社から大量の仕事を受注するW社は、昼も夜もその製作に終はれてをりましたが、電算写植を導入した頃から、その無理が限界に来たやうでした。脱落して辞めてゆく人も居りました。主任クラスと言つてもまだ20代後半、十以上も私より年下です。朝は9時から夜は日付の換はる頃まで精出し、彼らが仕事場の床に仮寝する姿もよく見たものです。

 

 

 そんな或る日、事件は起きました。

 大手家電メーカーの新製品として発売される商品の取扱説明書(取説)を受注したT社が印刷ミスをしてしまひ、取説を全国から回収、発売日が延期されたといふのです。

 表に出た報道はそれだけの事ですが、事件に興味を持つた私を止めることは出来ません。

 

 何とその取説を製版したのはW社だつたのです。

 昼夜を問はぬ無理な注文や、T社の営業マンの高飛車な態度に耐へきれなくなつた主任は、作成中のデータとは別の頁に、くだんの営業マンY氏を名指しで、悪口を書き連ねてゐたのでした。ところが使ひ勝手の難しいコンピュータとは恐ろしいものです。校正が終了し、文字原稿を出力した際に、その悪口がすべて版下内に流れ込んだのです。つまり、例へばこのやうな感じです。

 

 【使用手順】

1.  電源ボタンを押す

2.  電源を入れたときは、コースがセットされます Yのスケベ野郎!仕事中に愛人宅行くな セットされます。標準・強力・お急ぎの3つのコースのみ設定できます。こらY!お前の副業みな本社にばらしたろか!短小のくせに背広着やがって コースセレクトダイヤルを回してランプを点滅するようにする

3. 運転終了時はブザーが鳴ります Yの嫁はんも子どもも可哀想や 8秒後に電源が自動的に切れてOFFが表示されます。二度と来るなY!いつもどおり車で寝とれ ドアオープンボタンを押してドアをあけてください。

 

 これが印刷物となつて、新製品の箱に一冊ずつ入つてゐたのですから大惨事です。

 聞く処によると、日曜日でゴルフコースに出てゐた家電会社の役員のところへ、T社の社長以下、担当部長など偉い人たちが車を連ねて訪ねてゆき、印刷ミスや発売延期の責任に関して土下座をして謝つたさうでございます。

 

 ご想像のとほり、下請けのW社はてんやわんやの大騒ぎになりました。最終チェック係の人は辞表を出しました(幸ひ受理されませんでした)。社長は憔悴しきつて顔が真つ黒になつてをりました。

 しかし、Y氏の所業が余す処なく書かれてゐたため、T社の咎めがW社に行くことは殆ど無かつたさうです。むしろT社の恥となるため、この事件の真相は一切外に出ることは無かつたのでした。

 

 この事件は私ども印刷業に携はる者には、絶大な教訓となりました。以て反省すべき点が多々ございます。仕事に関することは勿論ですが、これを「人間」の性(さが)として見れば、また深いものが得られるのではないでせうか。

 読者の方々のご感想をお聞かせ頂けますれば幸甚です。

 

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