印刷業界を揺るがした出来事〈1〉 | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 

 私は現在、印刷業の製版部門に関連する業務に、自営業者として従事致しをります。

 40年ほど前には、未だ電算(コンピュータ)による製版は無く、文字は専ら「写真植字」に、版下レイアウトはカッターナイフで切り貼りに頼つてをりました。読書が好きで、漢字が得意だつた私は、それまで居た菓子業界から飛び出し、写真植字(写植)の専門学校へ通ひ、当時新神戸に在つた印刷会社へ入社しました。

 その後、紆余曲折があり暫く印刷業から離れましたが、数年後、数百万円で写植の機械を購入し、独立して写植工房を興こしました。

 

(私が所有してゐた PAVO10)

 

 最初は自分で営業する力もコネも有りません。そこで大阪市福島区に多数存在した「印刷デザイン事務所」の一社へ自分の機械を持ち込み、その事務所の仕事を無条件で全て請け負ふといふ条件で、競争の激しい業界に参入致しました。

 

 福島区には某最大手の印刷会社がございます。その周辺には、其処の会社の下請け企業、そのまた下請けの中小企業、更にまた下請けの零細業者が、文字通り犇いてゐます。

 中小以下の会社は、百貨店やスーパーのチラシなど元々製作期間の短い仕事に、それこそ不眠不休で対応することを求められます。ほんの一文字の訂正でも、営業マンが行き来し、それを複写してまた元請け会社に持参するといつた塩梅です。現代のやうにパソコンで即座に訂正して、校正をメールで送るなどといふ体制は夢のやうな話でした。

 

 中小会社の従業員たるや、それは気の毒な状態でした。毎晩のやうに工房に泊りがけで、家庭は半崩壊状態といふ人も度々居りました。私もそのやうな人たちと同じ立ち位置で、万年寝不足の日々を送りをりました。

 それでも私は独立業者ですからまだいい方です。稼いだ金額は少なくても、すべて自分のものになるといふ「やり甲斐」がございます。零細業者の従業員はさうではありません。

 

 数年経過しますと(だいたい30年程前)、電算写植システムが登場し、仕事の進め方が画期的に変化を遂げるやうになりました。これまで原始的な写植機械と切り貼りで対応してゐた印刷物の版下はすべて、コンピュータの画面上で済ませることが可能になつたのです。と申しましても、現在のやうなパソコンではなく、一台が四畳半程もあり、価格数千万円もする大きなコンピュータです。

 

 当初はそのやうな機械を使いこなせる人は未だ少なく、若くて頭の柔らかい主任クラスの人が製作の中心となりました。若い人は体力がございます。少々のきつい作業では音を上げることもございませんが、それでもやはり人間です。

 

 悲劇はそういふ時期に起こつたのです。

 

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