大男は何故、死んでしまふのか | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 

 幼い頃、自宅に月極で宅配されてくる「世界児童文学全集」全24巻が、我が家の本棚に鎮座致しをりました。父母が、長男の兄をはじめ、これから生まれ来る子どもらの情操のためを思ひ契約したのだと思ひます。グリムやアンデルセンなど、世界中の童話を集めたもので、多くは今もその内容をありありと覚ゑてをります。げに有難いことです。

 

 その中のひとつに、素晴らしい話にも拘らず、子供心にだうしても理解し難いものがありました。それはオスカー・ワイルド著による「わがままな大男」です。ご存じの方は多いでせうが、ご存じない方のため概要を記憶のままに申し上げます。

 

 

 或る粗野な大男が居りました。彼の家には大きな庭があり、木や季節の花々が咲いてゐます。近所の子供らが庭へ入り、毎日遊んでゐます。或る日、大男が旅から帰つてその光景を見ると「此処はワシの庭だ、出て行け!」と怒鳴り、子供らを追ひ出します。すると春にも拘らず花は枯れ、雪が降り、大男の庭だけが冬のやうに寒くなります。

 それでも子供らは、塀の隙間から目を盗んで遊びに来ては追ひ出され、庭はまた冬に戻る…そのやうな事を繰り返す毎日でした。

 大男は何故?と悩み、或る日、子供らが遊ぶ庭に出て行きます。子供らがわつと逃げる中、一人の幼な子が逃げ遅れます。大男がその子を抱き上げ、木の上に乗せてやると、子供らが戻つて来て庭にようやく春が訪れました。

 大男はその幼な子が可愛くてなりませんでしたが、その日以来暫く姿を見せません。

 

 淋しかつた大男の前に、久しぶりにその幼な子が現れました。ところが両手のひらに傷を負つてゐます。驚いた大男に其の子が言ひます。

 「あの日は木に乗せてくれてありがたう。お礼に今日は、小父さんを私の国に連れて行つてあげませう」

 翌日、いつものやうに子供らが庭に来て見ると、大男が莞爾と微笑み、花々に埋まつて亡くなつてをりました。

 

 今でこそ「手のひらの傷」で、幼な子が基督(キリスト)様の事だと解りますが、私が小さい頃は知りませんでしたし、大体、なぜ良い事をした大男が死ななければならないのか、子供心にさつぱり理解出来ませんでした。

 

 ところが数年前のこと、レンタルビデオで往年のお涙頂戴映画「汚れなき悪戯」(1955・スペイン)を借りて観たところ、ラストシーンで、私は半世紀昔に読んだ「わがままな大男」を鮮明に思ひ出したのです。

 ネタバレをお詫びしつつ、内容の一部を記憶のままに申し上げます。

 

 

 修道院の玄関に、毛布にくるまれた赤ん坊が捨てられてをりました。彼はマルセリーノと名付けられ、12人の修道士に愛されつつ成長します。或る家族に尋ねられると「父さんは12人、母は見たことない。母さんになつてくれる?」と答へる少年。

 「階上の屋根裏部屋には絶対に行かないやうに」と厳命された悪戯つ子のマルセリーノは、好奇心を抑えきれず屋根裏部屋に行き、十字架に磔された男の像を見つけます。そこで調理室で食料をくすねて像に捧げると、十字架の像は動きだしパンや葡萄酒を受け取るのでした。

 或る日、十字架の男が「お前の願いを叶えてやらう。何が欲しい?」と尋ねます。

 マルセリーノ「母さんに会いたい。あなたの母さんにも会いたい」

 十字架の男 「分かつた。でもお前は眠らなければならないよ」

 マルセリーノの言動に気づいてゐた修道士が扉の隙間から覗き見る中、十字架の男、即ち基督(キリスト)様の腕の中で、マルセリーノは永遠の眠りに就くのです。

 

 「何でや?!」と思はれた方、いらつしやいますか? 

 実は私も同感です。子供の頃の疑問が其のままなのです。

 前掲の大男といひ、マルセリーノといひ、良い行ひとは言はぬまでも、ごく親切なことをして基督様に近づいた人が、なにゆへ死ななければならないのでせう。

 

 なにぶんにも不勉強な私ゆへ、もし基督教に造詣をお持ちの方がおられますれば、是非、この二作品の真意(神意か)をご教示願ひたく、伏してお願ひ申し上げるものです。合掌

 

※書籍「わがままな大男」の表紙写真は図書館よりお借りしました

 

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