毎年この時期になりますと、伊丹にある私の自宅マンションに、舞い上がつてくるオレンジ色鮮やかな蝶がおります。
7月半ばになると必ず、約束したかのやうに最上階(8階)あたりまで飛んで参ります。マンション全体が白一色で、陽が当たると真夏には純白のやうに見ゑます中に、このオレンジ色の蝶が遊びますと、それはそれは美しく、今年のこの炎暑をしばし忘れさせてくれるほどの見栄へがございます。
昆虫の名前に詳しくないゆへネットで色々しらべてみますると、ツマグロヒョウモンといふ種類に似てをるのですが、季節がぴつたり合はないので別種やもしれません。
「蝶よ花よと育てられ…」といふ言ひ回しがあるやうに、蝶とは美しいもの、愛でられるものといふ印象がございます。
それに対し、蛾は如何でせう。
先ず、蝶に比べて胴が異状に太い。色が汚い、或いは不自然に派手である。羽が土色で皺が寄つたやうに奇怪である。夜中に明るい処へ集まる…。まあ、良い印象は殆どありません。ところが学術的には蝶と蛾は同じ仲間なのださうです。日本とイギリスでは蝶と蛾を区別してをりますが、それも明確な境界線は無く、つまるところ見た目の美醜に依るもののやうです。
私も例に漏れず、蛾は苦手です。
高校時代のことです。夏休みに同級生4人ほどで石垣島へ参りました。私は泳げないのですが、まあ其れは其れ。40年以上前のことなので、今のやうに豪華なホテルも少なく、学生らしく民宿を借りて3泊4日を楽しむつもりでございました。
本土では想像も出来ない美しい海を見て感動。夕食も新鮮な魚介類で、苦手なものの無い私は楽しい思ひ出にならむと確信致しをりました。
風呂も勿論共同です。6時から部屋ごとに30分交代で入浴時間が回つて参ります。私どもは最終で8時半頃からでしたつけ。風呂場のすぐ脇に洗面台がありました。
洗面台は、下宿屋でよくあるやうに横幅3メートルほどのセメント製で、蛇口が3つほど並んでをります。照明は長い蛍光灯。その正面は全面硝子(ガラス)で、昼間は鬱蒼と茂つた広葉樹が見ゑました。むろん照明は夜通し灯つてをります。
さて、夜9時頃のんびりと入浴を済ませた私は、歯ブラシを持つて何気なく洗面台に向かひました。前面のガラスには白いカーテンが掛かつてゐて「夜は外が見ゑないなあ」と思ひました。
よく見るとその白いカーテンは窓硝子の内側ではなく外に掛かつてゐるやうに見えました。そんなことがあらうものかと、更によくよく目を凝らしたところ…
「ギャーーーッ!!」
当初カーテンと思つたその白い幕とは、ガラス全面を覆ひ尽くす、何千何万といふ蛾の集団だつたのです。縦1メートル余、横3メートル余のガラス窓に、隙き間なく大小の蛾どもが、腹をこちら側に向けてヘバリ付いてゐるのでありました。
這々の体で窓際を離れ「早く家に帰りたい」と望郷心に取り憑かれたその日から、私は風呂は昼間に入ることとし、洗面所を使はず食堂の隅にあつた小さな流し台で歯を磨くことに致しました。高校生ですので金もなく、民宿を出てホテルに泊まることも出来ず、夕食後ただちに寝床に就くといふ3日間を過ごしたのでございます。
今もあの窓の光景が記憶に蘇ることがございます。それは歯間ブラシを使用する時です。歯間ブラシの1本1本が、蛾の触覚に見ゑてきて、戦慄の裡に寝苦しいはずの夜が何故か涼しく思へてくるのでございます。