ザリガニの母が哭いた〈1〉 | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 

 長男が小学生に入つた頃の事ですから、もう15年程前のことになります。

 

 或る土曜日の朝、自宅マンションのお掃除のおばさんが、我が家の玄関へ訪ねて参りました。清掃員の女性は二人居られましたが、私ども入居者の家族事情に詳しく…と言つても決して覗き趣味ではなく、至つて善意に富んだ接し方で住民と挨拶を交はし、子どもらの誕生や成長を喜ぶ人たちでした。

 この日玄関を訪れたおばさんは、小さなバケツを提げてをりました。その中には恐らく、近所を流れる小川から這い上がつてきたのでせう、1匹のアメリカザリガニが入つてをります。

 

 「S君は、ザリガニに興味ないかしら」

 S君といふのは息子の名前でございます。

 実のところ有り難迷惑ではありましたが、折角息子の為に持つて来てくれたものを、即答で「要りません」とも言へず、「うーん、だうでせう。本人に聞いてみます」と返事し、取り敢へづ預かりました。要らなければ川へ戻せば良い…といふ風に軽く考へてをつたのです。

 

 蹴球(サッカー)の練習から帰宅した息子は、小さなプラスチックの虫かごに移されたザリガニに一旦興味を示しましたが、自分で責任を持つて飼はむといふほどの熱意は無いやうです。

 妻と相談致しました。来週にでも掃除のおばさんに話せば、他に欲しい子が居なければ川へ逃がすのではなからうか…。されど、子どもが生き物を育てる経験もまた情操に良いのではあるまいか…。結論は先送りとなりました。

 

 

 さて、その日の深夜に、私は怪しげな物音で目を覚ましました。居間の方で、「キュー」といふか「チィ」と申しますか表現不能な、これまで耳にしたこともない音でした。何事ならむと音の方へ近づきますと、それはザリガニが入つた虫かごです。あたかも「助けてくれ」「此処は狭いから出してくれ」と訴へるやうな切実な声だつたのです。

 

 子を持つ親として、これは捨て置けないと、私ども夫婦は肚を括りました。

 

 翌日、ペットショップへ行き、少しましな硝子の水槽を買ひ求めました。

 

 そこに小石を敷き詰め、一日陽に当てた水を入れてザリガニを移します。よく見れば腰の曲がつた内側の辺りに、直径2ミリ程の大きい黒い粒が沢山付着致しをります。悪い病気にでも罹つたか…と案じましたが、そのまま放置致しをりました。

 

 そして月曜日の事です、玄関脇に置いた水槽を覗き込んだ私は仰天致しました。何百匹といふ、全長3ミリほどの小エビが水槽内を泳ぎ回つてゐるではありませんか。それは実に感動的な光景でございました。

 

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