先々週の本欄で、しばたはつみさんの想ひ出をお話ししましたね。それを切つ掛けに、記憶に甦つたことがございますので、今日はそれをお話しします。
奇しくも、やはり我が母校の大学祭、その丁度一年前の出来事です。
私が應援團の部活を致しをつた事は申し上げましたが、それとは別に、入学と同時に法学部から学生自治会の中央委員に立候補し、何故か謀略当選したのでございます。
さて大学祭といふイベントは、その学生自治会内の一部局である「大学祭実施委員会」が主催致します。
大学当局が主催するのではございません。実質上、会場を提供し、お金も出すけれども、主催はあくまで学生自治会といふのが建前でございました。
その自治会中央委員会で、大学祭の「学術祭」の講演に誰を招聘しやうかといふ議案が出、一回生の私は当時「題名のない音楽会」で著名な黛敏郎氏を提案致しました。勿論、他にも兼高かおる女史など様々な講師がリストアップされたのですが、後日、最終的にその案が通ることになつた次第です。
私の同学年にM君といふ友人が居り、彼も私と同じ中央委員(理学部選出)で、偶然、出光石油に関係のある家系だつたやうです。クラシック系音楽番組である「題名のない音楽会」のスポンサーは現在も出光興産でございますが、思へばだうやらそのM君の一族の縁故で黛敏郎氏の招聘が実現したやうでございました。
時は昭和49年(1974年)11月、第10回摂津祭「学術祭」の事でございます。
話には続きがございます。その日の午後、会場の体育館入口を私どもが警備致しをりますと、私の方を見て玄関の硝子をコンコンと叩くセーラー服姿の二人の女子高生が居ります。半ドアを開けて
「開場はまだまだ先ですよ…」と無愛想な口調で答える私。
「あのー、黛先生にお会ひする約束なんですけど…」と答える、うち一人の女子高生。
私の背後に、同じく警備を担当致しをりました剣道部のN君が「おいおい、トリトン。その娘、小坂明子ちやんや!」と囁くではありませんか。芸能界に疎い私でも「小坂…?」とつぶやいたあと、奇しくもこの年に発売され空前の大ヒットを博した「あなた」を想ひ出したのです。
慌てて、その制服姿の二人をドアの隙間から招き入れたあと、物置小屋然とした応接室に入つてもらひました。さてどうしたものか…。俄然そわそわし始めた私は、学術祭か大学祭の委員長に尋ねるしかないと判断、四方八方走り探し回つたことを今も想ひ出します。
当時、口さがない同級生らが「小坂明子? 顔見ん方がええで、歌のイメージと全然違ふで」と教へてくれた事がございましたが、それは全くの誤解でした。私の目の前の小坂明子さんは、小柄で愛くるしく、それはそれは笑顔の可憐なひとりの高校生だつたことを、此の場をお借りして証言させて頂きます。
その日の夜、講演が終はつたあとで、黛氏を学長室から、車の待つ玄関へ随行致します。高身長で細身な黛先生は「ごくろうさん」と私の目を見て労つて下さいました。そして「小坂くん、これ…」と自分に贈られた花束を彼女に手渡し「これからも大変だらうけど…」と優しく別れの挨拶をかけてをられました。めちやくちや恰好良かつたです。
黛氏と言へば生前の三島由紀夫氏と親しく、市ヶ谷事件直後の「題名のない音楽会」の放送は粛然とするほど真剣な氏の表情とナレーションのもと、追悼番組として進められたのを覚ゑてをります。このお二人に共通するダンディズム、私個人的には鶴田浩二氏を加へて三人、文学・音楽・映画と世界は異なれど、昭和を代表するものだと私は感ずるものでございます。