「初めての…」シリーズといふ訳ではありませんが、ふと記憶に蘇つた幼少の頃の風景を、二回程に亘つて思ひ出すままに綴つてみたいと存じます。
父の祖母、即ち私の曾祖母は私が小学校二年生(7歳)の時に亡くなりました。昭和38年、西暦で申しますと1963年の冬のことです。94歳と聞いてをりましたので、多分満年齢で92歳くらひではないかと存じます。当時では驚く程の長命でございます。通夜・葬儀は当時祖父・祖母が住んでゐた彦根市の家で行なはれました。
父は男ばかりの3人兄弟の次男。それぞれに男ばかり2人ずつ子供が居ります。私を含め6人がいとこです。事前に打ち合はせがあつたのか、この葬儀には3軒のそれぞれ弟の方だけを参列させることのやうでした。私は小学校を休み、父と共に参列することになりました。
私は父に連れられ、電車とバスを乗り継いで彦根市の父の実家に到着。其処は以前にも申しましたやうに、琵琶湖のほとりに在ります。農家なので敷地は広く、近くには川も多いので、子供らが昼間遊ぶには楽しいのですが、何しろ都会では想像できないほど正真正銘の田舎ですので、夜は鼻をつままれても判らないくらひ真つ暗なのです。
既に実家には顔も見たことの無い親類や近所の大人たちが大勢集まつてをり、父は旧友等に会へて懐かしさうですが、その中に子供が一人居ても何の楽しいこともありません。いとこたちは未だ来てをりません。しかも、家の座敷のど真ん中には曾祖母の遺体が顔に白い布を被せられて布団に横たはつてをります。
故人が90の齢(よわい)を越ゑますと、もう周囲の人々は悲しいといふ感覚など全く無きに等しいものでした。まるで盆と正月が共にやつて来たかのやうに、昼間から酒肴が並べられます。一体何が楽しいのか、呑めや歌へ、いや、歌ふ人は居りませんでしたが、笑ひ声や拍手喝采有りの、まさに大宴会です。
そのやうな中、午後3時頃ですが、故人を棺桶に納める時刻が参りました。この地方の棺は大きな樽の形を致しをります。長い箱形ではありません。
おもむろに腰を上げた曾祖母の息子(つまり祖父)、孫(つまり父とその兄弟)らが寄つてたかつて、横たはる故人を起こし、掌を合はせる形に腕を曲げます。恐ろしいのは、湯にも漬けず、既に死後硬直した後の体を曲げる訳ですので、バキバキバキッといふ音が部屋中に響き渡るのでございます。
ひえ~っ!
未だ七つの齢の私には怖いの何の…(たぶん今でも怖い) 一目散に前栽へ逃げる私は小平奈緒よりも速かつたのではないでせうか。
さて遺体は丁度、体育坐りの形に曲げ、樽に納めてから、合掌させて、額の前に三角巾を付けるのださうです。勿論、私は見てをりませんが…。
さて、さすがに導師が来られると、大人たちも先程までの騒々しさは何処へやら、皆うつむいて神妙な顔を致しをります。ところが、読経が終はりますと、あーら不思議、今度は坊主まで交ぢへ、昼間を越える規模の酒池肉林、いやいやさすがに「肉林」だけはありませんが大騒ぎです。
頼みの綱のいとこ2人がやつて来たのはもう夕方で、心細かつた私はようやく話し相手を得る事ができたのです。 <以下次週>