何と言つても、怖かつたのはその晩です。
江戸以前の古へより雪隠(トイレ)といふのは、家の中ではなく独立して外に在るのが普通でございました。恐らくその理由は臭気を避ける為に母屋から遠くにする事と、糞便を肥料として畑で使用する便宜からかと察せられます。
申し上げましたやうに、田舎は今のやうに街灯も無く、隣家も離れてをりますので、夜は漆黒の闇となります。雪隠や風呂の照明は20ワットくらひの裸電球が一つあるのみ。加へて、農家の雪隠の床は板一枚で、その下は一部屋も有るやうな大きさがあるのです。夜ともなれば下から妖怪が出て足を引つ張られるのでは…と、オカルトな雰囲気たるや抜群だつたのです。
小用だけなれば母屋横で済ませるのですが、大きな方はさうは参りません。私はなぜかこの晩、大きい方を催したのでございます。「ウンが悪い」といふ言葉は、この為に有るのでせう。母親と一緒に帰省したのであれば、雪隠まで母親について来てもらふのですが、今回は父しか居りません。私は父が怖かつた訳ではないのですが、ついて来るやう頼むのは気が引けるのでありました。
致し方なく、私は地団駄を踏みながら夜明けを待つことに決めたのでございます。一番鶏が鳴く前に母屋を出て、50メートルほど離れた琵琶湖へひた走り、周囲を見渡してようやく安堵の吐息をついたのでした。
閑話休題…
さて、朝食後はまた大勢の親類が集まり、葬列の準備に勤しみます。私ども3人の子供の役は、2人が先頭で提灯を持ち、私はその後ろに卒塔婆を掲げて歩く役でした。卒塔婆とは図のやうなものです。俄然お墓の雰囲気が出て参りますよね。
その後ろに僧侶が1人、そして故人を納めた棺桶を男4人程が棒で担ぎます。唐丸籠と言へば罪人用ですが、イメージ的にはそれに近いです。その後ろを喪服の親類縁者が続き、列の全長数十メートル程。市中引き回しではありませんが、このやうな行列で墓所へ向かひました。当時この地は土葬だつたのです。
墓所もまた琵琶湖から一本道を隔てた砂地の共同墓地です。深い穴が既に掘られてをり、そこへ男衆が太い縄を用ひてゆつくりと棺桶を降ろしてゆきます。穴の堀り方は結構アバウトなやうでした。「3年前は此処やつたから、今回はこの辺りかな~」といふ感じで掘る位置を決めてをるやうです。その証拠といふ訳ではございませんが、趣味の悪い墓堀人が居たのでせうか、すぐ横の太い杭の上に、古い髑髏(頭蓋骨)が置いてあつたのには皆が眉を潜めてをりましたつけ…。読経の中、初めに土を被せるのは親族の男衆で、何人かがスコップで土砂を掛けますと、あとはプロのアンダーテイカーにお任せとなりました。
亡くなつた曾祖母は夏休みで帰省した際に数度しか会つた事もなく、いづれかと言へば厳しくて、孫には怖い煙たい存在でございました。それでも、大勢の親戚衆や近隣の人々が私ども幼な子を見ては、声を掛けたり菓子をくれたりして、故人の想ひ出を語つてくれるのには感謝を覚ゑるのでした。
さて、2日間の法事休暇を取り、無事小学校へ参りますと、担任のK教諭が私を呼びつけ「ひいばあちやんが亡うなつたんか。それでは休めんのや~」と困り顔。
だうやら、親等の関係上、今回は出席扱ひに出来ないといふ意味だつたのでせう。祖母・祖父迄が忌引きの対象だつたのだと思ひます。私としてはいづれでも構はないのですが、それを耳ざとく聴いた阿呆な級友どもが「ひいばあちやんの次は、ひいひいばあちやんや」と囃し立て、その日から私は「ひいひいトリトン」と呼ばれるやうになりました…とさ。 〈完〉