以前、「初めてのアルバイト」といふ拙話をお話し申し上げましたが、実はいま一つ高校3年の卒業間際に、身の程を弁へぬアルバイトをしたことを思ひ出しました。今思へば、恐らく自らの記憶から消去したかつたのやも知れません。当時の私にとつては苦い思ひ出だつたからでせう。
私の叔父は京都の有名大学を卒業し、大手保険会社の大阪本社に務めをりました。決して私の方から望んだ訳ではございませんが、その叔父が同社の事務職のアルバイトを紹介してくれたのでございます。
叔父の親類といふことで面接は省略。初日には正装で来いと言はれ、産まれて初めてネクタイの締め方を兄から教はり、長良川の鵜になつたやうな気分で御堂筋に在ります巨大なビルを訪ねました。7階辺りで隣のビルに橋のやうに繋がつてゐる、45年前頃は最先端の建築だつたと記憶します。
ロビーで叔父が待つてをり、しばし懇談の後「保険証券課」といふ部屋へ連れて行かれました。男性が課長さんともう一人若い人が居るばかりで、ほか20人くらひは女性でありました。私は中学も高校も男子ばかり、帰宅部で日々読書ばかり、映画とプロレスにしか興味がなく、日頃は母以外の女性と話した経験もないので面喰らひました。保険証券課での仕事は、書類を照合、封筒詰めといつた軽作業です。
同部署に配属されたのは私の他に二人、これも女子高生かなといふ感じでした。そのうちの一人が大層美しい娘だつたのです。当時流行してをりました歌謡曲「私の彼は左まき」のアイドル麻丘めぐみさんにそつくりで、私は毎日仕事をするふりをして見つめてをりました。思ひは募るばかりですが声をかける事が出来ません。アルバイト最終日に意を決して、お手洗ひからの帰りを待ち「僕とつきあつてくれませんか」と告白した処「私大学生だし、好きな人が居るので…」と速攻断られました。
無念さによる赤面と冷や汗を休憩室で醒まし、いざ机に戻つたところ、私の指導をして下さつてゐた年配OLさんが「トリトンさん、泣かんとこの仕事して」と呼びかけるのです。絶句!何と、左巻きの彼女は先刻起きたことを全部周囲に話してをつたのです。それから帰宅するまでの時間は針のむしろでございました。断られたことよりも「恥をかかされた」ショックが大きく、「最終日にしてをいて良かつた」といふ自己保身めいた思ひも湧いて参りました。
今にして思へば、私はこの時に「恥」といふものの感覚をはき違へてしまつたのだと言へます
このトラウマ(斯様な大袈裟なものではありませんが)はその後3年以上続き、大学4回生に至るまでは、女性に声をかけることも出来ませんでした。その分、男ばかりの應援團生活に打ち込むことが出来ましたのも、或は左巻きの彼女のお陰と言へなくもありません。その意味で今では感謝致しをります。
吾非不知 羞不為也 荘子
吾は知らざるに非ず
羞じて為さざるなり
爾後半世紀、只管(ひたすら)男として生きむと思ひつつ、業の僕(しもべ)として仕へ、夫として父として養つて参りますと… 世事は中々思ふやうにゆかづ、また「恥」の正体も朧げに判るやうな年代になりつつあるのです。