今どき、自宅に「蔵」が在ると言ふと、昔は武家か庄屋さん、宿屋さんか…といふ印象を持たれるかと存じます。
実はそれ以外にもございます。父が経営してをりました「質商」がさうです。お客から預かつた品物、現代ではロレックスとか骨董など飛び切り高価なものでないと中々お金を貸しては貰へませんが、昭和50年くらひまでは物品そのものに価値がありました。そこで質商とは生活上のありとあらゆる物を「質草」として預かり、仮令少額でも庶民が借りに来られる、民間金融機関だつたのです。
そのため、敷居の高い一般銀行に対し、質商は「一六銀行」、つまり1と6を足すと7(しち)になることから、さういつた愛称を賜はつたものです。七の正しい読み方は「しち」でせうが、関西では「ひち」と発音するため、看板には「ヒチ」と大書する店が今でも多うございます。
常日頃、余り借金といふことをされない方々が興味を抱かれるのは、恐らく「質屋の蔵には一体如何なる物が入つてゐるのか」といふことではないでせうか。それがしは昔(昭和)の頃のことしか存じませんが、最も多かつたのは衣類でした。背広、皮革ジャンパー、ベルト、着物などの衣類が50%くらひを占めてをつたやうに記憶します。
想像してみて下さい。衣類には冬物、夏物がありますね。ですから夏には冬物の背広やジャンパーや毛皮を着ないのでそれらを預けて金を借りるのです。逆に冬になれば夏物を預け、冬物を引き出す訳です。借り主にすれば、どうしても冬物の方が高価になりますので、夏は少し裕福に過ごせますが、冬は高いものを着る代はりに懐中(ふところ)は寒いといふ現象が起きて参るやうです。
私どもが子どもの頃(昭和30年代)は、質屋で借りた金を本当に生活費に充ててゐる方が多うございました。ご婦人が風呂敷を抱ゑて隠れるやうに訪ねて来られる事も多かつたです。
当時の質屋の玄関には写真のやうに黒い大きな暖簾が掛かつてをり、更にその外には客が姿を隠して入れるやうに、高さ2m、幅3m程の黒い板塀が立ててありました。同い年くらひの下校中の児童や園児が、この板塀をかくれんぼに使用してゐるのを、私は窓からのんびり眺めてをつたものです。
やがて昭和も40年くらひになりますと、借りた金は生活費としてではなく、主に賭け事に使はれることが多くなつてきたやうに思ひます。これはとりも直さず、人々の生活が少し向上してきたことを意味してをります。
賭け事に関しては、さうでなくとも尼崎市には市営の「競艇場」があり、市内の駅から無料送迎バスも出てございます。その上、駅といふ駅の周囲にパチンコ店が林立して参りますと、それに注ぎ込む金銭が必要になつてきます。
当方の店へ訪ねてくる男性客が、己の腕時計やコートなどを預けに来る程度ならば良いのですが、中には奥様の着物や親の貴重品を家から持ち出して預けに来られる御仁も現はれて参ります。
一般的に賭け事は勝たないことには、質草を出せない仕組みになつてをりますので、そのまま引取りに現はれなければ即ち「負けた」と、私どもは察することが可能な訳です。
中には負けが込んだのか立飲屋で自棄酒を呑んで、帰りの電車賃も使ひ尽くしてしまふ事例もございます。遅い時刻になつて、そのやうな御仁が「親父さん、さつきの背広でもう少し貸してくれへんか」といふ事もまま有ります。
大体さういふ人は目一杯借りてをる場合が殆どですし、本当は追加融資は法律で出来ないのですが、父も「しゃあないなあ、今回だけやで」と言つて貸してやつてをる次第を、隣室で学問に励む私は耳にするのでありました。 (まだ続く予感…)