旧聞となりますが、13日(月)未明にテレビ朝日で「プロレス総選挙」といふ画期的な番組があつたのですね。昔、力道山のプロレス番組がテレビの普及に最大の貢献をした事実は、我が国戦後史として広く知られてゐます。
父が質商をしてをりました関係で、質草にテレビを抱へてくるお客さんが多く、それが流れることから、かなり早い時期(昭和30年初頭あたり)から、我が家にはテレビが有りました。力道山見たさに、さして仲良くも無い近所の人が、夜8時前になると我が家にビールを持つて訪ねてくる事もありました。通行人が窓から、我が家のテレビを鈴なりに覗いてをつたこともあるさうです。
もちろん子供心に力道山のプロレス中継はよく覚ゑてをります。グレート東郷の流血戦で高齢者が亡くなつたニュースも、リアルタイムで記憶にございます。
さて、ランキング1位がアントニオ猪木選手…。
まぁ、妥当なのやもしれませぬが、私個人としては少し複雑な心境になります。その理由は私の幼時体験によるものです。
1969年、中学生時代、私はNWA世界ヘビー級王者として初来日したドリー・ファンク・ジュニアの熱狂的なファンでした。父親のシニア夫妻とジミー夫人共々来日したドリーさんは、知性的でファンにも記者に対しても紳士的な好青年といふ印象でした。この時はテレビで観戦したのですが、ジャイアント馬場選手との引き分けに続き、猪木選手との時間切れ引き分け試合は、今も歴史に残る名勝負です。
1971年12月、大阪府立体育館にてドリーさんのNWA世界ヘビー級王座と、猪木選手のUN王座との前代未聞のダブルタイトル戦が行はれることが発表されると、喜び勇んだ私は友人N君と大変高価なリングサイド席を購入したのです。ところが残念無念、この試合は結局中止となるのです。
私の記憶では試合前日に猪木選手が輸尿管結石症(?)か何かで入院…といふニュースが流れましたが、正直な話、それを事実と思つた人は一人も居りませんでした。大スポ(東京スポーツの関西版)には倍賞美津子夫人と病室に居る猪木選手の写真が掲載してありました。当時、猪木選手の日本プロレス興行との確執や、選手間の不仲は広く知られてをりました。これは後に「新日本プロレス」の発足に繋がる訳ですが、この時点での欠場は私ども純真(単純)なファンからすると、大試合を盾にとつた猪木選手の非常識なストライキ以外の何物でもありませんでした。「実は猪木はピンピンしてゐる」といふ噂も飛び交つてをりました。
12月9日当日、府立体育館のドアには猪木選手の休場を知らせ、急遽坂口征二選手とのNWA世界戦への切り替へとする張り紙が貼られてゐました。私と友人N君を含むファンは世紀の名勝負を諦めきれず心底がつかりの表情でしたが、あとは坂口選手にただ良い試合を…といふ気持ちでした。
この経緯をリアルタイム、しかもその場所で知る人はもう少ないでせうが、私は昨日のことのやうに覚ゑてをります。
ドリーさんの公式HPに「ドリーの物語」といふ日本語手記が掲載されてをりますが、その中で猪木選手との再戦が叶はなかつた無念の気持ちが書かれ、最後に
猪木は日本で最強のレスラーだと豪語しているが、
あの大阪の夜、卑怯者になった。
Yakusoku wo mamorimasen deshita.
と書かれてをりますので、ご参考までにご覧下さい。
以上は、私の個人的な恨み言に準拠した、極めて片寄つた見方ではありますが、猪木選手のその後の、人質事件解決騒動や北朝鮮興行、スポーツ平和党など数々のスタンドプレイを見るにつけ、あの日の不愉快な印象が拭へないのです。
末筆になりましたが多数の猪木ファンの方にはお詫び申し上げます。合掌