思へば、兄と比較されてゐた私は不憫なものです。小学六年生時、お気楽な私でも緊張感から小用が近くなり、日常頻繁に厠に通ふやうになりました。今となつては、一種の神経症を煩つたのだと推定されます。
そのやうな次第で、親や家庭教師も最後には匙を投げた形となり、兄のN中学と比較して遥かに劣るK中学といふ中高一貫校を受験し、無事合格しました。
斯くして周囲の失意をよそに、私はやつと肩の荷を降ろすことが出来たのです。それでも、その中学入試では4、5位の成績で通過したのですから、あながち勉強といふものは無駄にはならないものですね。
次に「戻りたくない」中学〜高校時代を挙げたいと思ひます。
男子ばかりのK中学に入学した私は、当初その成績を維持せむと勉強に精を出してをりましたが、人間一旦安易な環境に馴れると、決意したやうにはゆきません。あれよあれよといふ間に流されてゆきました。中一当初は成績で一目置かれた感じもありましたが、徐々に化けの皮は剥がれてゆきます。
生来運動が苦手な私、体育の授業は苦痛でなりません。男子校ではバカでも体育の成績さへ優秀ですとヒーローになれますが、体育「可」(60点)では致し方ありません。水泳の夏期合宿(逃げられない淡路島、当時はまだ大橋がありません)は最下位クラスで、夏休み末尾に登校し補習まで受けさせられました。
結局安易な生活に馴れた私は、高校受験コースを選ばず、そのままエスカレータ式にK高校に入学しました。この頃には学級で最も背丈が小さくなつてをりました。
高校で体育授業の或る日、学級を二つに分けてサッカー紅白戦をする事になりました。体育教師W氏は、事もあらうに、紅白リーダーを各一人決め、その生徒が順番に残りの学級メンバーを独りずつ交互に指名するといふ、人類が考へ得るうちで最も差別的な方法を採りました。そこで私は何と最後まで残つてしまつたのです。心ない授業方針に、この時もW体育教師に殺意覚へましたね〜(笑)。
当時、未だ社会的に「パワーハラスメント」といふ概念はありませんでした。
この手の事柄は、殆どの人々(級友)は忘れてしまひますが、被害者は一生覚へてをります。この悔しさをバネにして発奮することが出来れば、これも「人間万事、塞翁が馬」てふことになるのですが…。
その後の私が、大学生活以降をどのやうに生きて来たか…それは、いづれまたお話しする機会があらうかと存じます。
それでも矢張り「あの日には帰りたくないなあ」と思ふ私です。
〈完〉
それでも矢張り「あの日には帰りたくないなあ」と思ふ私です。
〈完〉