あの日に帰りたくない…〈1〉 | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

還暦を過ぎたトリトンのブログ

団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 誰しも過去の人生で「あの頃にだけは戻りたくない」といふ時代があると思ふのです。

 就中、恐らく数多の人の共感を誘ふのは「受験生」の時期ではないでせうか。私にも人並みにその時期がありました。
 私の場合は、まづ中学受験の時期を挙げたいと思ひます。

 昭和40年初頭の頃、私の住んでゐた尼崎市立花地区では、教育熱心な親が多数、神戸市の小学校へ越境入学させるといふことが流行致しました。抑々子どもを校区以外の公立学校へ通はせるのは、今も昔も規則違反であることに変はりございません。
 私の場合、登校を希望する小学校(神戸市内)の校区内の有志宅に戸籍を移し、表向きはその家から通学するといふ形をとつて、本当は国鉄立花駅から通学してゐたのです。見知らぬ土地に伝手があるはずもないのですが、蛇の道は蛇、しつかり斡旋をする人物が居るのでした。

 同じ時間帯の国鉄電車で通学する者が、私ども兄弟の上下併せて常時20名は居りましたから、かなり流行してをつたのでせう。因にその中には、第一話でご登場頂いた「らも」さんも居られました。彼らは皆同様の手段を用いてをつたものと思はれます。学級にも3、4名同様の級友が居りました事実が、その多さを証明してゐると言へるでせう。

 家庭が皆それだけ教育熱心である訳ですから、親の子に対する教育姿勢も自ずと厳しくなるのは想像に難くありません。子もまたその期待に応へやうと致します。その結果、我が兄(2学年上)は有名進学校のN中に合格致しました。親も、家庭教師も、担任教諭も、小学校当局も、鼻高々です。すると次は彼らの目が、弟の私に向いてくることは避けようがございません。


 しかし兄とは異なりお気楽な私は、その期待に応へる素養が欠如してをりました。
 無論兄の事は誇りに思つてをりましたが、「自分は違ふ」といふ私の意見に耳を傾けてくれる者は居りませんでした。

 今思ひ出しても腹立たしいのは、小学校で美術・図工を担当してゐた○松教諭です。何か私が凡ミスを犯さうものなら
 「兄はN中へ行つてるのに、弟は何をやつとんねん!」
 「N中へ行くてふやうな子が、そんな事でどないすんねん」
…と、級友全員が居るなかで、このやうな言い方で罵るのでした。お気楽な私でしたが、正直この時は殺意さへ覚へたものです。
                      (つづく)