中島らもさんの想ひ出 | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 私の生家はJR立花駅前に在り、現在はその家の1階で印刷業を営んでをります。
 小学校の頃(昭和37~43年)、この立花駅から国鉄(懐かしいですね~、当時はまだ「省線」を呼ぶ人も多かつたです)に乗り摂津本山駅で降りて神戸市東灘区の某小学校に通ふことがなぜか流行し、私の家の近所から20名近くの児童が同じ学校に通ふことが常でした。
 その中の一人に、近所の中島歯科の次男坊で成績優秀な子がおりました。当時から特に優秀なトップクラスの児童は中学受験の結果、灘中学、甲陽中学(いずれも私学)へと進みます。この中島君は灘中学へと進みました。

 さて私の兄も小学校の成績が優秀で、灘中学校に入学そして灘高校へと進学し、その2年後、兄の成績の足下にも及ばなかつた私は甲○中学校に入学することになり、2人で同じ国鉄で通う日々が続きました。
 そんなある朝、兄の2、3メートル前に長髪の若い男性が歩いてをり、手には日本酒の一升瓶を提げてゐます。その次の日はサントリーオールドを提げて歩いてをります。
 兄がその男性を後ろから指さして「あれ中島君や」といふのです。驚きましたねー。髪はジョン・レノン風の肩まで垂れたヒッピースタイル、髭を生やして、特徴的な大きな眼はいつもトロンとしてゐました。衣服はブルージーンズでハッピの長いような上着、下駄またはツッカケを履いてゐました。登校時、兄と「今日はどんな恰好してるやろ」と楽しみにして、後ろから眺めるのを楽しみにしてゐたものです。
 ヒッピースタイルは反体制の象徴でもあり、親や学校に反抗する子は、まず髪を長くするといふ約束事のやうな雰囲気の時代でしたので、中島君が家や学校で他人からどのやうに見られてゐるかは一目瞭然でした。中島家の奥様(中島君のご母堂)は息子の将来を悲観して悩んでをられたと、母からも聞きました。
 大学は大阪芸術大学へ入学されたと聞きました。

 後年、兄から「コピーライターとして著名な『中島らも』さんは、あの中島君やで」と聞かされた時も驚きましたねー。其の後作家としても大人気を博され、独特の作風に当時のアンニュイを感じさせるものがあり、本当に懐かしく思ひました。自分は酒に酔つぱらつて死ぬんや…と予言されていた、将にその通りの最後を遂げられた時も驚かされ、結局、最初から最後まで驚かされつぱなしでした。
 冥福をお祈り申し上げます。 合掌